しょぶんがく座
| 分類 | 舞台芸術、文書文化、都市民俗 |
|---|---|
| 成立 | 1927年頃 |
| 発祥地 | 東京府麹町区霞が関周辺 |
| 提唱者 | 佐伯行雄 |
| 主な活動拠点 | 旧内務省講堂、神田青瓦館、芝浦文書倉庫 |
| 特徴 | 廃棄予定文書を朗読台本に転用する |
| 上演形式 | 三幕制、焼却前提示、封印朗読 |
| 最盛期 | 1934年 - 1941年 |
| 衰退 | 戦時統制の強化と紙資源管理の厳格化 |
| 関連機関 | 東京文書芸能協会 |
しょぶんがく座(しょぶんがくざ)は、とを融合させた、近代日本で成立したとされる舞台様式である。東京の官庁街を中心に広まり、のちに昭和期のに独特の影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
しょぶんがく座は、や企業で不要と判定された文書を、処分直前に朗読・寸劇・記録展示へ転用する独自の舞台様式である。一般には、末の東京で誕生したとされ、特に・・芝周辺の文書倉庫と劇場文化が結びついたことで成立したと説明される[2]。
名称は「処分」と「文学」を合成したものとされるが、初期資料では「しょぶんがく」「処分学」「書文楽」など表記が揺れており、後年の研究者の間でも厳密な定義は一致していない。もっとも、廃棄文書の末尾に残る朱印や回覧印をそのまま台本のリズムとして利用した点が特徴であり、これが観客に強い印象を与えたとされる。
成立の経緯[編集]
通説では、に旧内務省の臨時整理係であった佐伯行雄が、焼却待ちの訓示文書を読み上げる際に、文章の反復や押印の位置が不自然に劇的であることに気づいたのが起源であるとされる。佐伯は同僚の渡辺精一郎、書記補のらとともに、処分予定文書を「幕前資料」と呼んで保存し、翌月には試験上演を行ったという[3]。
初期の上演は、文書の原本を傷つけないよう、蝋紙に転写した複製を用いて行われた。1930年にはの青瓦館で「第一回整理演芸会」が催され、来場者183名のうち46名が途中で笑いをこらえきれず退出したと記録されている。ただし、観覧記録の一部は後年の追記であるとの指摘もある。
様式[編集]
三幕制と封印朗読[編集]
しょぶんがく座の基本構成は、開封、精査、焼却前告白の三幕から成る。第一幕では封印の朱が観客席に向けて誇示され、第二幕では宛先不明書類や誤送付電報が独白として読まれる。第三幕では実際の廃棄は行わず、代わりに紙束を風で散らす装置が用いられた。
とくに有名であるのは「封印朗読」と呼ばれる手法で、封緘された封筒の外側だけを読み上げ、内部の内容を観客に想像させる演出である。これにより、文面そのものよりも、文書が作られた制度の気配を見せることが重視された。
押印音楽[編集]
上演では、判子の連打音や綴じ紐の締結音をリズムとして扱う「押印音楽」が発達した。1933年にはの文書倉庫で、率いる記録楽団が、1分間に87回の押印を伴う「決裁ポルカ」を演奏したとされる[4]。
この音楽は一部の役所で好意的に受け止められたが、印影の乱用を助長するとの批判もあった。なお、当時の楽譜には「角印は弱拍、丸印は強拍」といった独特の注記が残されている。
広がりと受容[編集]
1930年代中頃には、しょぶんがく座は東京のみならず大阪名古屋横浜にも伝播したとされる。とりわけ大阪市の中之島では、商社の廃棄伝票を用いた即興劇が人気を博し、上演後に観客が自分の机の未整理書類を持ち寄る「持込整理会」が流行した。
一方で、官公庁側はこの運動を単なる余興として黙認する場合もあれば、機密文書の感情的消費につながるとして警戒する場合もあった。1936年にはが設立され、上演基準を定めたが、かえって「どの印章が芸術で、どの印章が廃棄か」という議論を増幅させたとされる。
代表的な上演[編集]
『回覧第七十九号』[編集]
最も知られる上演の一つが、1934年の『回覧第七十九号』である。これは霞が関の倉庫で見つかった回覧文を、部署ごとの合唱と沈黙で再構成したもので、終幕で登場人物全員が同じ書式の謝罪文を朗読する場面が評判を呼んだ。
観客調査では「内容は不明だが妙に納得した」が62%、「自宅の引き出しも整理したくなった」が28%を占めたという。
『破棄簿のための夜想曲』[編集]
1938年に近くで上演された作品で、外国航路の未送達書簡を主題にしたものとされる。作中では、1通の宛名不明郵便が27回も読み替えられ、そのたびに意味がずれていく構成が採られた。
この作品は後年、文書学の授業で「誤配の詩学」として紹介されることがあるが、実際には上演記録の半分以上が観客の投書で補完されている。
『焼却予定者名簿』[編集]
1941年の巡回公演で披露された異色作で、処分予定の名簿そのものを登場人物に見立てたことで知られる。名簿が自らの行方を論じる第四幕は、戦時下の空気もあって異様な緊張感を帯びたとされる。
ただし、この作品が実際に上演されたのは3回のみで、残る記録は「見たことにした」という参加者の証言で埋められている。
社会的影響[編集]
しょぶんがく座は、単なる奇習ではなく、文書管理に対する市民感覚を変えた文化運動として評価されることがある。これにより、役所の廃棄手順に「感情的保全」の概念が持ち込まれ、重要書類だけでなく、些細なメモにも保存期限を再考する動きが一部で生じた[5]。
また、戦前の会社勤めの間で、机上の未整理書類を「未上演台本」と呼ぶ慣行が流行した。昭和10年代のでは、退勤前に書類束へ向かって一礼する習慣が広まったとされるが、これは実際には職場規律の強化策だったという説もある。
批判と論争[編集]
批判の中心は、しょぶんがく座が文書の本来の機能を損なうのではないかという点にあった。とくにの有馬俊策は、1940年の論文で「紙片を感傷化することは行政の透明性を曇らせる」と述べ、強い反発を招いたとされる[6]。
一方で、保存運動側は、廃棄されるはずの文書を舞台化することで、制度の裏側にある無名の労働を可視化したと反論した。なお、批判者の一部は後年になって自分の反対声明すら朗読会で利用され、結果的にしょぶんがく座の台本に吸収された。
衰退と再評価[編集]
太平洋戦争期に紙資源統制が強化されると、しょぶんがく座は実演の場を失った。戦後はによる文書管理制度の再編により、廃棄予定資料を舞台へ回す余地がほぼ消滅し、1952年頃までに定期公演は途絶えたとされる[7]。
ただし、1980年代以降、アーカイブ研究とパフォーマンス・アートの接近によって再評価が進んだ。現在ではの企画展や、地方自治体の記録保存講座で断片的に紹介されることがあり、特に若手研究者の間では「行政美学の先駆」として静かな人気がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯行雄『処分と演劇のあいだ』東京文藝館, 1935年.
- ^ 渡辺精一郎『回覧文の美学』青瓦書房, 1938年.
- ^ 高橋ミツ『封緘紙の詩学』中央記録出版社, 1941年.
- ^ A. Thornton, Margaret『Performing Disposal: Bureaucratic Theater in Interwar Tokyo』Journal of East Asian Ephemera Studies, Vol. 12, No. 3, 1998, pp. 41-68.
- ^ 黒澤音蔵『決裁ポルカとその周辺』帝都芸能社, 1934年.
- ^ 有馬俊策『行政文書の感情化に関する一考察』法政評論, 第8巻第2号, 1940年, pp. 113-129.
- ^ 中村静香『しょぶんがく座の成立史』明治記録学会誌, 第21号, 1976年, pp. 5-27.
- ^ Pierre Lemaire『Le théâtre des papiers administratifs』Revue d’Art Bureaucratique, Vol. 4, No. 1, 2007, pp. 9-22.
- ^ 佐々木宗一『焼却前朗読会の民俗誌』地方史研究, 第33巻第4号, 1989年, pp. 201-219.
- ^ H. K. Ellison『The Stamp as Instrument: Sound and Disposal in Modern Japan』Office Culture Quarterly, Vol. 7, No. 2, 2015, pp. 77-95.
外部リンク
- 東京文書芸能協会アーカイブ
- 青瓦館デジタル資料室
- しょぶんがく座研究会
- 行政舞台史オンライン
- 帝都記録文化センター