ちだまちし
| 正式名称 | 地脈測史法 |
|---|---|
| 通称 | ちだまちし |
| 発祥 | 千葉県沿岸部 |
| 成立時期 | 18世紀末から19世紀初頭 |
| 主な用途 | 地盤の機嫌判定、潮害予測、建築前鑑定 |
| 関連分野 | 民俗学、地質模擬学、港湾計画 |
| 中心人物 | 塩見源左衛門、渡辺霧子 |
| 保管史料 | 房州地脈文庫、旧浦賀測候所資料 |
| 衰退 | 昭和40年代以降 |
| 現況 | 一部で儀礼的継承 |
ちだまちしは、江戸時代後期に千葉県沿岸部の潮干狩り文化から派生したとされる、地面の血流を読むための民間測定法である。かつてはの漁村で「土地の機嫌を知る技術」として用いられ、のちにとの境界領域に取り込まれたとされる[1]。
概要[編集]
ちだまちしは、土地の表層に現れる微細な湿り、塩気、足音の返り方を総合して、地面が「どの程度まっすぐな未来を持つか」を判定する方法であるとされる。千葉県南部では、漁場の選定やの建設前に簡易なちだまちしが行われたという記録が残る。
名称は「地」「血」「待ち」「史」の四語をつなげたものと説明されることが多いが、明治期の郷土研究では、もともと「血は土地の記憶である」という俗信に由来するとの説も提示された。もっとも、史料の多くはに集中しており、同文庫の目録が1938年に一度焼失しているため、成立事情には不明な点が多い[2]。
一般には民間占いの一種とみなされがちであるが、の旧測量官たちが防波堤工事の前に参照したことから、実用技術として再評価された時期がある。この再評価は、戦後の系調査と結びつき、ちだまちしを半ば迷信、半ば予備調査として扱う独特の行政文化を生んだ。
歴史[編集]
成立と初期の伝承[編集]
最古級の記録は4年、の漁師・塩見源左衛門が「海の白さを地へ移して見る」技法として書き残した覚書であるとされる。ここでは、砂を掌で三回なで、指先に残る塩粒の数が7粒を超えると、翌月の地割れが多いと判定されたという。
ただし、同時代の村役人文書にはそのような測定法は見えず、後世のが脚色した可能性が指摘されている。一方で、の寺社修繕記録に「地待ちの者、来る」とあることから、何らかの職能集団が存在した可能性は否定できない[3]。
明治期の学術化[編集]
明治23年、東京帝国大学の外郭研究会に所属していた渡辺霧子が、房総沿岸で行われていたちだまちしを「地脈の気圧応答」と仮定し、数式化を試みた。彼女は測定器として、製の皿との湿度票、さらに鴨川産の石灰を詰めた小瓶を用いたとされる。
この研究は当初、大学内部でほとんど相手にされなかったが、内務省の港湾調査に転用されたことで急速に広まった。1897年の浦賀試験では、ちだまちしによる「不機嫌地盤」と判定された区画から実際に湧水が出たため、翌年だけで神奈川県内の公共工事14件が同法を参照したと記録されている[4]。
大正・昭和期の制度化[編集]
大正末期には、ちだまちしはの非公式附属手法として扱われ、検査員は測量杭の位置だけでなく、近くの魚網の乾き方まで記録した。とくに昭和8年の埋立計画では、4名の判定士が同一地点を見て「青・灰・怒・眠」と異なる評価を下し、最終的に「怒」の判定を採用したという。
この採用は、のちに埋立地の一部で不規則な地割れが頻発したことから英雄視されたが、反対に「偶然の一致にすぎない」とする批判も強い。なお、当時の議事録には「判定士のうち1名が昼食後であったため発言がやや辛辣であった」との記載があり、ちだまちし史のなかでも屈指の信頼性の低い逸話として知られる。
戦後の衰退と残存[編集]
戦後はの発達により、地面の性格を読む必要が薄れ、ちだまちしは急速に周縁化した。1956年には内で「情緒的地盤判定」として分類され、公共事業への正式採用は事実上停止された[5]。
ただし、周辺では、祭礼の前に土地を叩いて湿り気を聞き分ける簡略版が残り、現在でも年に27回ほど集落単位で行われるという。もっとも、これは儀礼としての継承であり、実際の判定精度は担当者の機嫌に大きく左右されるとされる。
方法[編集]
ちだまちしの基本手順は、①裸足で対象地に立つ、②東西南北に向けて1回ずつ深呼吸する、③左手の薬指で地面を三角形に撫でる、の3段階から成るとされる。最後に、耳を地面から約14センチの高さに置き、音の「戻り」が7拍以内かどうかを数える。
判定結果は、青地・赤地・鈍地・逃地の4種類に分かれる。青地は建築向き、赤地は祭礼向き、鈍地は保留、逃地は「半年以内に別の場所を探すべき」とされた。なお、判定の際に用いる小石はの海岸で採れたものが最良とされ、同じ大きさでも黒い石は「過去が重い」として避けられた[6]。
測定者には独特の作法があり、初学者は必ず「地は動いている」と小声で唱えてから測ることとされた。これは土地を驚かせないためだと説明されるが、実際には測定者自身の緊張を和らげる心理的手段であった可能性が高い。
社会的影響[編集]
ちだまちしは、における建築文化に独特の慎重さをもたらした。たとえばでは、家を建てる前に地面の「眠り」を確認するため、施主が近隣の猫の行動を30分観察する慣習が定着し、これが不動産価格の変動に影響したとされる。
また、との関係も深く、地盤が「怒地」と判定された場所では、港の拡張より先に慰霊が行われた。こうした習俗は、近代化の過程で非合理的と批判された一方、災害多発地域における合意形成の技術として評価されることもあった。とりわけ関東大震災後の復興会議では、ちだまちしの判定を参照した区画ほど住民説明会の出席率が高かったという報告がある[7]。
批判と論争[編集]
ちだまちしに対する批判の中心は、再現性の低さと、判定者の主観に強く依存する点である。1949年にが実施した比較試験では、同一敷地を5名が判定した結果、4名が青地、1名が逃地と答え、しかも逃地と答えた者は「地面が自分を嫌っている気がした」と記していた。
さらに、1962年の年会では、ちだまちしが地盤の特性を説明するどころか、測定者の疲労と空腹を反映しているだけではないかとの指摘がなされた。これに対し擁護派は「空腹を含めて土地を読むのである」と反論し、会場が一時静まり返ったという。なお、この応酬は議事要旨に記録されているが、要出典とされることも多い。
現代の継承[編集]
21世紀に入ると、ちだまちしはではなく、地域ワークショップの題材として再編された。現在はの委嘱講座や、の観光体験プログラムで簡略版が教えられ、参加者は「地の声カード」と呼ばれる8色の札を受け取る。
また、との接続も試みられており、2018年にはの小学校で、児童62名が校庭の水はけをちだまちし式に調べる授業を受けた。結果として、最も早く水たまりを見つけた班が最優秀とされたが、これは測定精度よりも長靴の深さが勝敗を分けたとみられている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺霧子『房州地脈試論』東京帝国大学外郭研究会報告, 1891.
- ^ 塩見源左衛門『海と地のあいだ』房州地脈文庫, 1838.
- ^ 小泉久太郎「浦賀試験におけるちだまちし判定の再検討」『港湾技術史研究』Vol. 4, No. 2, pp. 41-58, 1939.
- ^ 佐伯芳枝『地待ちの民俗学』平凡社, 1966.
- ^ M. Thornton, “Subsoil Mood Indicators in Coastal Japan,” Journal of Folkloric Engineering, Vol. 12, No. 1, pp. 9-27, 1974.
- ^ 高橋春馬「地面の声を聴く—房総における簡易判定法」『日本民俗研究』第28巻第3号, pp. 113-129, 1982.
- ^ E. K. Wainwright, “On the Emotional Classification of Ground in Eastern Prefectures,” Proceedings of the Pacific Survey Society, Vol. 7, pp. 201-219, 1957.
- ^ 千葉県教育委員会『ちだまちし教材化の記録』千葉県教育庁, 2004.
- ^ 鈴木一彦『空腹と地盤—判定者心理の研究』中央土木出版社, 2011.
- ^ 森田ゆかり「南房総の『逃地』信仰に関する覚書」『地域儀礼年報』第15号, pp. 77-90, 2019.
- ^ P. A. Rowe, “A Curious Method for Reading Tidal Soil Temper,” Coastal Studies Review, Vol. 3, No. 4, pp. 55-66, 1968.
外部リンク
- 房州地脈文庫デジタルアーカイブ
- 千葉沿岸民俗資料室
- 旧浦賀測候所資料目録
- 地待ち研究会
- 南房総ちだまちし保存会