らくおび
| 名称 | らくおび |
|---|---|
| 別名 | 楽帯、姿勢帯、補正帯 |
| 分類 | 衣料補助具・民俗工学 |
| 成立 | 19世紀末ごろ |
| 主な伝承地 | 京都市、東京市、金沢市 |
| 用途 | 姿勢補正、長時間労働の疲労軽減、礼装時の呼吸制御 |
| 考案者 | 西園寺 兼弘ほか数名 |
| 材料 | 綿布、竹芯、馬毛、漆加工紙 |
| 盛衰 | 大正末期に普及、戦後に急速に衰退 |
| 現状 | 一部の舞踊研究会で再評価 |
らくおびは、の内側に仕込んだ微細な緩衝構造によって、着用者の姿勢と歩行の癖を補正するための民俗的補助具である。主として京都の呉服商と東京府の洋装改革派のあいだで発展したとされ、のちに昭和初期の文部省系研究会によって体系化された[1]。
概要[編集]
らくおびは、通常のよりも内圧を分散させ、腰部の負担を減らすことを目的とした補助具であるとされる。外見はきわめて地味であるが、着用者の立ち姿がわずかに安定するため、、、の稽古場で重宝されたという。
その起源は、明治30年代に京都の老舗呉服店「西園寺屋」が、反物の余りを活用するために試作した腰当てに求められるとする説が有力である。ただし、大阪の輸送業者の荷締め技術が先行していたとの指摘もあり、どちらが先かは今なお決着していない[2]。
成立の経緯[編集]
らくおびの成立には、近代化に伴う衣生活の変化が深く関わっていた。東京への上京者が増え、和装のまま長時間移動する女性が増加すると、従来の硬いでは腹部への圧迫が問題視されるようになったのである。これに対して、京都府立第二高等女学校の寄宿舎で、簡便な布製緩衝材を帯の内側に挟む方法が考案されたという。
1912年には、西園寺兼弘の名で『楽帯試製覚書』が回覧され、そこでは「三歩に一度、腹式呼吸が阻害されぬこと」が採用条件として記されていた[3]。この覚書は後にの旧蔵書整理の際に再発見され、らくおび研究の基本史料とみなされている。
構造と種類[編集]
初期型[編集]
初期型は厚さ約7分、幅3寸2分の綿層に、細く割った竹芯を6本並べたものである。軽量である反面、雨の日に湿気を吸いやすく、着用後に「帯が眠る」と呼ばれるたるみ現象が起きたという。
改良型[編集]
改良型では、の漆工職人が提案した防湿紙が内部に挟まれ、冬季でも形状が崩れにくくなった。これにより、茶屋街の芸妓のあいだで広まり、踊りの終盤に背筋が伸びて見えるとして評判になった。
簡易携行型[編集]
簡易携行型は、折りたたんだ新聞紙を巻き込める構造を備え、出張の多い商人向けに考案された。記録によれば、横浜の船員組合が「甲板上でもほどけにくい」として採用を検討したが、実際には船酔い対策に転用される例が多かった。
普及と社会的影響[編集]
らくおびが最も普及したのは大正後期から昭和初期である。女性雑誌『装いと衛生』や『家庭新報』がたびたび紹介し、1927年には年間約18万2,000本が国内で流通したと推定されている[4]。とくに名古屋の繊維商組合では、夏季の注文が前年同月比で1.8倍に増えたという。
一方で、らくおびには「良い姿勢を強制するため、かえって礼法を硬直化させる」との批判もあった。文部省の家庭科調査班は1934年の報告書で、着用児童の肩甲骨周辺が過度に固定される例を挙げ、学校行事での常用には慎重な運用を求めている。ただし、その報告書の付録に添えられた図版は、なぜか帯ではなく海苔巻きに似ているとして研究者のあいだで知られている。
人物[編集]
西園寺 兼弘[編集]
西園寺兼弘は、らくおびの実質的な体系化を行ったとされる呉服商である。彼は京都の錦小路で店舗を構え、仕入れた反物の端切れから何度も試作を繰り返したと伝えられる。晩年は「帯は結ぶものではなく、納得させるものである」と語ったというが、出典は不明である[5]。
高橋 みつ[編集]
高橋みつは、東京市下町の女学校で裁縫を教えていた人物で、集団着付けの現場にらくおびを持ち込んだ最初期の普及者とされる。生徒が長時間の正座で足を崩しにくくなったため、彼女の授業だけ妙に静かだったという逸話が残る。
黒田 省三[編集]
黒田省三はの前身組織に属した研究者で、らくおびの内圧分布を簡易測定する木製装置を作った。装置は「腹部の気合いを数値化する」と称され、学会では好意的と困惑が半々で受け止められた。
批判と論争[編集]
らくおびをめぐる最大の論争は、それが実用品であるのか、あるいは礼装文化の演出装置であるのかという点にあった。とりわけ昭和7年の『婦人週報』誌上では、らくおび愛好家と洋装派の編集者が4号にわたって応酬し、最終的に「帯は静かであるべきか、賢くあるべきか」という結論の出ない命題だけが残った。
また、1941年ごろには軍需物資節約の名目で、らくおびの芯材に使われる竹の配給制が提案されたが、実際には呉服問屋の在庫調整に吸収され、制度としてはほぼ形骸化したとされる。なお、配給台帳の一部には「らくおびではなく、やや苦おびである」との謎の手書き注記が残っている。
衰退と再評価[編集]
戦後、洋裁の普及との発達により、らくおびは急速に姿を消した。1958年には東京都内の主要百貨店からほぼ撤退し、1970年代には骨董市で「用途不明の腰巻き」として売られることが増えたという。
しかし、1990年代以降、文化の再興や姿勢矯正ブームに伴って、民俗工学の一種として再評価が進んだ。の保存調査では、現存するらくおびの実測資料が11点確認され、そのうち2点は内部に小さな鈴が縫い込まれていた。これは着用者が猫背になると鳴る仕掛けだとする説があるが、真偽は定かでない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西園寺兼弘『楽帯試製覚書』西園寺屋内部刊行物, 1912.
- ^ 黒田省三「らくおびの内圧分布に関する簡易測定」『家政工学雑誌』Vol. 4, No. 2, pp. 11-29, 1931.
- ^ 高橋みつ『女学校裁縫教育と身体補助具』京都女子文化社, 1936.
- ^ 佐伯良一「和装における姿勢補正技術の変遷」『日本民俗衣装研究』第12巻第3号, pp. 88-104, 1954.
- ^ Margaret L. Thornton, The Hidden Sash: Domestic Ergonomics in Prewar Japan, University of Cambridge Press, 1962.
- ^ 田宮京子『帯芯の科学と礼法の近代化』河原書房, 1974.
- ^ Shinobu Hasegawa, “Soft Armor and Soft Posture: A Note on Rakuobi,” Journal of Asian Material Culture, Vol. 18, No. 1, pp. 3-17, 1988.
- ^ 『装いと衛生』編集部「家庭における楽帯の衛生問題」『装いと衛生』第7巻第9号, pp. 41-46, 1929.
- ^ 小松原寛『らくおび図説 - やわらかな礼法の系譜 -』東西民具出版, 2001.
- ^ 加納澄子「帯は納得させるものである——西園寺兼弘の言葉をめぐって」『京都生活史研究』第6号, pp. 55-61, 2010.
外部リンク
- 西園寺屋アーカイブ
- 京都民俗衣装資料室
- 日本姿勢補助具学会
- 装い文化デジタル年表
- らくおび保存協議会