シニウス・ホロボシウス・キエサル
| 氏名 | シニウス・ホロボシウス・キエサル |
|---|---|
| ふりがな | しにうす・ほろぼしうす・きえさる |
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 出生地 | 静岡県浜名郡弁天島村 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工学者、記号収集家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1964年 |
| 主な業績 | 巡礼路符号学の提唱、回遊札帳の編纂 |
| 受賞歴 | 帝都民俗学会奨励賞(1958年) |
シニウス・ホロボシウス・キエサル(しにうす・ほろぼしうす・きえさる、 - )は、日本の民俗工学者、記号収集家、ならびに地方巡礼研究者である。昭和前期に各地の祭礼経路を「歩行する文字盤」として再定義した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
シニウス・ホロボシウス・キエサルは、大正末期から昭和中期にかけて活動した日本の民俗工学者である。各地の社寺参詣路や河川堤防の踏破記録をもとに、土地固有の移動様式を分析したことで知られる[1]。
彼の研究は、当初は東京帝国大学の地誌学系統に属する周辺分野として扱われたが、のちにの前史研究や、の観光路線設計にも影響を与えたとされる。もっとも、キエサル本人は「路は人の記憶を通してのみ地図になる」と述べたと伝わり、学術と半ば呪術のあいだを漂う独特の人物像が形成された[2]。
名称の由来[編集]
「シニウス」は、幼少期に母方の旧姓であったをラテン語風に読み替えたものとされ、「ホロボシウス」は彼が少年期に採集していた星形の貝殻標本に由来する通称である。なお「キエサル」は、晩年に内の山岳札所で用いた署名から定着したもので、実際には本人が三種類の筆名を場面ごとに使い分けていたという[3]。
研究分野[編集]
彼の専門は、当時まだ定義の揺れていたであり、民話・道標・橋脚銘・石段勾配を同一の観測対象として扱う点に特徴があった。のちの研究者はこの方法を「歩行により得られる文化データの可視化」と呼んだが、当時の同僚の多くは「測るものを増やしすぎた男」と評している[4]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1897年、浜名郡弁天島村の網元の家に生まれる。幼少時から干拓地の水路に沿って石を並べ替える癖があり、家族はこれを「潮目の遊び」と呼んでいた。小学校時代には、登校経路を毎日わずかに変えることで天候と歩幅の相関を記録しており、村医からは「やや統計に寄りすぎる」と評されたという[5]。
1912年にはに進学し、との成績が突出していた。特に地図帳の余白へ経路図を書き足す癖が問題視され、担任に没収された記録が残る。後年本人は、この没収事件が「地図を閉じた瞬間に道は増える」という着想の起点であったと述懐したとされる。
青年期[編集]
、東京帝国大学予科に入学し、のちに地理学研究室へ進んだ。ここで系統の民俗資料整理法に触れたことが転機となり、山村の道祖神や参詣札の配置に強い関心を抱くようになった。ただし本人は、単純な民俗学ではなく「通過した身体の癖を集める学」として再構成する必要があると主張し、しばしば教授陣と対立した[6]。
1920年には卒論の副論文として『堤防上の反復歩行に関する観測』を提出したが、本文より注記の方が長かったため、指導教官から再提出を命じられた。このとき彼は注記に「観測者自身もまた地勢の一部である」と書き込み、以後の研究姿勢を確立したとされる。
活動期[編集]
1921年、内務省系の臨時調査員として沿線の巡礼路調査に参加する。ここで彼は、各地の石畳に刻まれた摩耗の差を「信仰圧」と呼び、札所ごとの滞在時間を平均2.7分単位で比較した。調査報告は官庁文書としては異例の文体であったが、の関東大震災後、避難経路の再設計に一部利用されたという[7]。
には代表作『回遊札帳』の初版を刊行し、全国742か所の札所を「移動する記号系」として整理した。特にの一部を、番号ではなく風向きで並べ替えた章は論争を呼んだが、のちに観光案内図の設計者たちが密かに参照したとされる。なお、彼が当時用いていた携帯測量器は、地元紙で「ポケットに入る杖」と紹介された[8]。
にはの創設準備委員を務め、翌年から講演活動を本格化させた。講演では必ず聴衆に3分間の黙歩を求め、会場内を無言で歩かせてから話し始めたため、聴講態度は良いが座席の位置関係が毎回崩れることで知られた。
人物[編集]
キエサルは、厳密な記録癖と突飛な比喩で知られる人物であった。会話中に突然方位を口にする癖があり、昼食の誘いに対しても「北西寄りなら可」と返した逸話が残る。
性格は温厚であった一方、他人の履物の減り方を観察することに異常な関心を示した。弟子の一人によれば、初対面の相手には必ず靴底を見てから名刺を渡していたというが、真偽は定かではない[10]。
また、執筆中は必ずを七分目まで入れた湯呑を机の右奥に置き、原稿の推敲は歩きながら行った。原稿用紙の欄外に「余白は道である」と書くことを好み、そのため校正者からは常に赤字が増える作家として敬遠された。
業績・作品[編集]
主要著作[編集]
代表作には『回遊札帳』()、『石段の速度学』()、『黙歩論』()がある。なかでも『石段の速度学』は、段差の高さを歩行者の沈黙時間に換算するという独創的な計算法で知られ、地方自治体の階段改修資料に転用されたとされる[11]。
『黙歩論』では、集団移動時に会話が減る区間を「文化的屈曲点」と定義し、京都の寺社密集地帯や長野県の山岳参道を比較した。なお、同書の第3章だけは妙に詳細で、実際には弟子のによる口述筆記が混入していると考えられている。
学説[編集]
彼の学説の核心は、道は単なる移動経路ではなく、反復された会話・迷い・休憩の総体として成立するという考えにあった。この発想は、後年のやにおける歩行者導線分析へ間接的に引き継がれたが、本人はむしろ「地図の空白こそ最も豊かな土地である」と強調していた[12]。
また、彼は札所や道祖神を記号としてのみ扱わず、設置年代、周辺の匂い、昼と夜での見え方まで含めて記述した。これにより、民俗資料の記録形式がそれまでの年表中心から、経路中心へ移行する一因となったと評価されている。
後世の評価[編集]
死後しばらくは異端の民俗学者として扱われたが、にとをめぐる再評価が進み、彼のノートは国立国会図書館所蔵の特別資料として整理された。とりわけ、路地の曲がり角を「沈黙の保存庫」とみなした記述は、のちの都市文学研究者に引用された[14]。
一方で、彼の統計はしばしば恣意的であり、サンプル数が17の項目と31の項目で急に混在するなど、現代の基準では明確に怪しい箇所も多い。このため、学術的には再現困難な部分があるものの、逆にその不安定さが「昭和民俗学の熱」として愛好されている。
には浜松市で回顧展「キエサルと道の記憶」が開催され、来場者数は3週間で約4万8千人に達した。展示物の中に、彼が実際に使ったとされる折れた杖と、歩数記録を記した煙草箱が含まれていたが、後者については別人の所蔵品である可能性が指摘されている[要出典]。
系譜・家族[編集]
父は弁天島村の網元・、母は旧家出身のであった。兄弟は姉が一人、弟が二人おり、姉のは後年まで彼の札帳の清書を手伝ったという[15]。
にと結婚し、二男一女をもうけた。長男のは鉄道技師、次男のは地方紙記者、長女のは図書館司書となり、いずれも父の「道を記録する癖」を別の形で継承したとされる。
なお、孫の世代になると姓の表記が一部でと改められたが、これは戸籍整理の際に担当者が発音を聞き取れなかったためと伝えられる。家系図の研究では、この表記揺れが現在も論点になっている。
脚注[編集]
[1] 彼の活動範囲はから京都、に及んだとされる。 [2] 研究ノート『路と人の相互浸透』に見える一節による。 [3] 同時代の弟子証言に基づくが、署名の変遷には異説もある。 [4] いわゆる民俗工学の定義は後代の整理である。 [5] 村医の回想録に記述がある。 [6] ただし、講義態度は終始良好であったという。 [7] 第14号、pp. 22-31。 [8] 『地方新聞集成』春季号、p. 8。 [9] 彼の晩年ノートは一部未整理のままである。 [10] この逸話は弟子の回想録でのみ確認される。 [11] 昭和12年の道路補修計画に引用されたとの記録がある。 [12] 近年の研究で再検討が進んでいる。 [13] 授賞式の記録写真には、本人が方位磁針を持って写っている。 [14] 国立国会図書館所蔵の複製資料番号K-4412。 [15] いずれも家族口述に基づく系譜帳による。