三ツ沢 好文
| 選手名 | 三ツ沢 好文 |
|---|---|
| 画像 | Mitsuzawa_Yoshifumi_1959.jpg |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像説明 | 時代の三ツ沢 |
| 愛称 | 二軍の王様 |
| 生年月日 | 1937年5月18日 |
| 出身地 | 神奈川県横浜市 |
| 身長 | 178 cm |
| 体重 | 72 kg |
| 国籍 | 日本 |
| 背番号 | 21 |
| ポジション | 投手 |
| 所属チーム | 毎日オリオンズ / 大毎オリオンズ / 阪急ブレーブス |
| 利き手 | 右投左打 |
| medaltemplates | なし |
三ツ沢 好文(みつざわ よしふみ、昭和12年 - )は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。の所属。通算3度の二軍防御率1位を獲得し、「二軍の王様」と呼ばれた[1]。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
神奈川県横浜市の旧で生まれ、戦後間もない港湾地帯で育った。小学生時代にはで草野球に明け暮れ、地元の少年団では「縫い目の少ない球を投げる」と評されたという。
に入学後、当時流行していた“軟式から硬式への切り替え訓練”を受け、には県大会で準優勝を果たした。なお、本人はのちに「高校時代は打撃の方が好きだった」と述べているが、投手起用の多さから進路が固定されたとされる[2]。
毎日・大毎時代[編集]
にへ入団し、同年に一軍デビューを果たした。ルーキーながら変則的なスローカーブを武器に、当時の二軍では12試合連続無失点を記録し、球団内で「調整登板の切り札」として重用された。
1958年には球団名変更により所属となり、同年に二軍で14勝3敗、防御率1.21を記録した。これにより“勝っても昇格しない投手”として話題になり、のスコアラー席では、彼の登板が始まるとメモ用紙が裏向きに置かれたという逸話が残る[3]。
阪急時代[編集]
にへ移籍し、ここで本人の持ち味であった緩急差がさらに磨かれた。移籍初年度には一軍での登板機会を3試合にとどめた一方、二軍では8完投を記録し、球団は彼を「実戦型の予備戦力」と位置づけた。
には二軍監督のによりキャプテン格のまとめ役を任され、若手投手への助言役も務めた。翌年には自己ベストを更新する防御率0.87を記録したが、同時に一軍では1勝に終わり、ファンの間で“二軍で強すぎる投手”という不思議な評価が定着した。
代表経歴[編集]
代表歴としてはのに補充招集され、遠征で3試合に登板した。公式記録上は国際Aマッチには数えられていないが、本人は後年、「海を越えると球が少し曲がる気がした」と語っている。
なお、にはの技術委員会から「投球テンポの統一化」に関する講習会講師を依頼され、実質的に“代表的な投手”として扱われた時期がある[4]。
選手としての特徴[編集]
三ツ沢は、右腕から投げ下ろす重いシュートと、遅れて落ちるドロップを組み合わせた技巧派投手であった。球速そのものは当時の一軍平均に達しないこともあったが、打者の手元で小さく外れる軌道が特徴で、特に系の右打者に強かったとされる。
一方で、登板間隔が空くほど制球が安定するという極めて珍しい性質を持っており、二軍では「三日寝かせると別人になる」とまで言われた。球団トレーナーの記録によれば、の春季キャンプで14日連続ブルペンに入らなかった後、急に3連続完投を達成したという[5]。
また、打撃面では左打席からのバント処理に定評があり、プロ入り後に最も高い打率を残したのが“代打待機中の練習試合”だったという記録が残る。本人はこれを「投げるより転がす方が簡単だった」と説明している。
人物[編集]
三ツ沢は寡黙な選手として知られていたが、遠征先の宿では妙に几帳面に湯のみを並べる癖があった。球団関係者によれば、の合宿所で毎晩21個の湯のみを直線に並べ、翌朝に1個だけ角度を変えるのが日課だったという。
食事は極端に好き嫌いがなく、唯一の例外が“白いだけのうどん”であった。これは若手時代、大阪市内の食堂で「色がないと疲れる」と漏らしたことから広まり、以後は出前の際に海苔を多めに要求するようになったとされる。
また、引退後に地元の少年野球教室で語った「いい投手は、投げる前に一度だけ嘘をつく」という言葉が有名である。真意は不明だが、投球動作の緩急を指したものと解釈されている[6]。
記録[編集]
タイトル・表彰[編集]
二軍防御率1位を獲得し、には二軍最優秀投手賞を受賞した。またには球団内表彰として「調整登板功労賞」を贈られている。これは当時、試合結果よりも“翌日の練習に響かない投球”が評価された珍しい賞であった。
にはによる特別表彰を受け、同年の受賞者一覧では打者を抑えた回数よりも「ベンチでの静粛性」が高く評価されたと記録されている。
代表歴・国際試合[編集]
のアジア野球親善選抜で3試合に登板し、計17回2/3を投げて自責点2を記録した。さらにのでは延長11回を一人で投げ切り、現地紙に「沈黙のジャパニーズ・エンジン」と報じられた。
なお、国際舞台での成績は地味であるが、相手ベンチに“調整試合で最も消耗する投手”として警戒された点が特筆される。
個人記録[編集]
一軍通算成績は46勝51敗、防御率3.28とされるが、二軍通算では通算98勝32敗、防御率1.09という極端な数字が残る。特にからまでの7年連続で二軍完投勝利を記録し、球団記録として半ば伝説化した。
また、での二軍戦において、同一打者から1試合3打席連続で見逃し三振を奪った唯一の投手とされる。これはスコアブック上は“無音の快挙”として扱われ、のちの分析記事でもしばしば引用された[7]。
出演[編集]
現役時代にはの缶詰広告に起用され、「投げてもおいしい」という謎めいたコピーで知られた。映像では、三ツ沢がマウンドから降りずに食堂車の弁当を食べるだけの30秒CMが放送され、視聴者の理解を越えた演出として話題になった。
には日本テレビの野球番組『週刊ベースボールアワー』に出演し、投球フォームをスローモーションで解説したほか、「調子の悪い日は球場に着く前に半回転だけ深呼吸する」と語った。これが後年まで真似され、関西の草野球界では“三ツ沢式呼吸法”が流行したという。
また、引退後にの子ども向け番組へゲスト出演し、紙飛行機でストライクゾーンを説明する企画を担当した。スタッフが用意した紙飛行機の数は47機で、うち1機だけが本当にストライクゾーンに入ったため、その回だけ再放送が増えたとされる。
著書[編集]
著書に『沈黙の二軍マウンド』(、)がある。内容は自伝というより練習日誌に近く、各章の末尾に「本日の球数」「風向き」「食堂の味噌汁の濃さ」が細かく記されている。
ほかに、少年向けの技術書『キャッチャーミットの外側へ』(、)を監修した。ここでは“投げ分けは人生の分け方に似ている”という有名な一節があり、野球少年より国語教師に読まれたという。
未完に終わった草稿として『一軍に上がらない勇気』があり、遺族の了解のもと一部がに公開された。もっとも、草稿の大半は練習メニューの箇条書きであったため、研究者の間では資料価値の評価が分かれている。
背番号[編集]
背番号はを最も長く着用した。これは球団内で“21日は三ツ沢の日”と呼ばれるほど定着し、のファンクラブ会報では21番の写真が毎号1ページ目に掲載された。
毎日・大毎時代にはも着用しており、移籍直後の数試合では「37なのに落ち着いている」と評されたことがある。阪急では再び21に戻り、本人は「背番号が変わると球の高さも変わる」と語ったが、科学的根拠は確認されていない[8]。
批判と論争[編集]
三ツ沢の評価をめぐっては、長らく「二軍では無双するが一軍では控えめ」という点が議論の対象であった。特にのオフには、昇格基準を満たしているにもかかわらず二軍に残されたことから、当時の紙面で“選手運用の謎”として取り上げられた。
また、本人が引退会見で「勝ち星は多いほど良いが、負け方にも品がある」と述べたことが、一部ファンの反発を招いた。もっともこれは、試合後の移動疲労を気にした比喩だったとも解釈されている。
近年では、二軍成績の価値をどう扱うかという議論の象徴として研究されることがある一方、当時の資料が散逸しているため、要出典とされるエピソードも少なくない。
脚注[編集]
[1] 球団公報では「三ツ沢好文」の表記ゆれとして「三ッ沢」と記された例がある。 [2] 高校時代の球速計測値には諸説あり、当時の計測器の誤差も指摘されている。 [3] 二軍戦の防御率は球場ごとの記録係によって差がある。 [4] 代表歴の扱いについては、正式代表か選抜かで見解が分かれる。 [5] 練習日誌の原本は現存しない。 [6] 発言内容は後年の聞き取りによる再構成である。 [7] スコアブックの一部は複写が不鮮明である。 [8] 背番号と投球感覚の関係は、球団内の俗説にすぎない。
外部リンク[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『昭和二軍投手列伝』ベースボール・マガジン社, 1984年, pp. 112-119.
- ^ 藤村和雄「大毎オリオンズ投手陣の再編成とその周辺」『日本野球史研究』Vol. 8, No. 2, 1991, pp. 41-58.
- ^ Margaret L. Henson, "The Slow Curve and the Shadow Roster", Journal of Pacific Baseball Studies, Vol. 3, No. 1, 2004, pp. 77-93.
- ^ 中島善彦『二軍の王様たち』朝日スポーツ出版, 1977年, pp. 56-64.
- ^ Ichiro Takase, "Pitchers Who Improved in Rest", Baseball Anthropology Review, Vol. 12, No. 4, 2010, pp. 201-218.
- ^ 松本義春「阪急ブレーブスにおける背番号運用史」『関西体育史紀要』第14巻第1号, 1998, pp. 5-19.
- ^ 小田切玲子『球場と食堂のあいだ』講談社, 2001年, pp. 89-96.
- ^ Harold P. Niven, "A Japanese Minor-League Legend: Mitsuzawa Yoshifumi", North Asian Baseball Quarterly, Vol. 6, No. 3, 1987, pp. 33-49.
- ^ 山岡辰夫「投球前の沈黙に関する一考察」『スポーツ行動学雑誌』第21巻第2号, 2015, pp. 144-151.
- ^ 三谷直人『プロ野球と背番号21の文化史』河出書房新社, 2009年, pp. 18-27.
外部リンク
- 日本野球人物事典データベース
- 昭和プロ野球アーカイブス
- 二軍記録研究会
- 関西野球文化保存会