八重歯論
| 名称 | 八重歯論 |
|---|---|
| 読み | やえばろん |
| 英語 | Theory of Double-Fanged Dentition |
| 提唱時期 | 1968年頃 |
| 提唱地 | 東京都文京区 |
| 分野 | 審美学、歯科民俗学、都市文化論 |
| 主要提唱者 | 有馬 恒一郎、ルース・ハーディング |
| 影響 | 写真文化、雑誌広告、芸能人のイメージ戦略 |
| 批判 | 測定基準の曖昧さと統計の再現性不足 |
| 異説 | 江戸後期の「笑歯書」に源流があるとする説 |
八重歯論(やえばろん)は、歯列の一部が前方に突出して見える現象を、審美学・民俗学・社会心理学の交差点で説明しようとする日本発の仮説体系である。に東京都で最初の定式化がなされたとされ、のちに昭和の都市文化を象徴する理論として知られる[1]。
概要[編集]
八重歯論は、八重歯を単なる歯列異常としてではなく、「笑顔における緊張と親和性の両立」を示す社会記号として解釈する理論である。歯科医の観察記録、広告業界の顔貌分析、ならびに早稲田大学周辺で流行した対話型美容講座が結びついて成立したとされる[2]。
この理論の特徴は、八重歯の価値を固定的な美醜で測らず、視線の誘導、口角の角度、発話時の口唇開度まで含めて評価する点にある。ただし、初期文献の多くは写真の露出時間と印刷網点の粗さに大きく左右されており、今日の基準からみると統計的にはかなり怪しいと指摘されている[3]。
成立史[編集]
文京区の私設研究会[編集]
八重歯論の原型は、春に文京区本郷の貸し会議室で開かれた「顔面微差研究会」に求められる。同会は歯科医のが、患者写真を並べて「わずかな突出が印象の温度を上げる」と述べたことから始まり、参加していた編集者のがこれをメモにまとめたのが最初の記録とされる[4]。
同年夏には、の印刷所で作成された小冊子『歯列と親近感』が配布され、そこに「八重歯は笑意の縁飾りである」とする有名な一句が載った。もっとも、この句は後年になって有馬本人ではなく、当時同席していた舞台照明技師のの手になるものと判明したともいわれる。
欧米民俗学との接合[編集]
、英国出身の文化人類学者がロンドンで発表した講演「Canine Ornament and Social Trust」が日本語圏で紹介され、八重歯論は一気に国際語彙化したとされる。彼女は、子どもの乳歯交換期に見られる一時的な歯列の乱れを、共同体が「未完成の可愛げ」として受容する仕組みとして説明し、これが日本の八重歯観と奇妙に一致した[5]。
ただし、後年の研究では、Whitcombeの講演で示された比較資料のうち3割以上が実在しない地方誌からの引用であり、会場にいた聴衆の一部は「どの国にも同じ顔の文化があるのだ」と半ば呆れていたと回想している。
理論の内容[編集]
八重歯論では、八重歯を「前方性」「対称性の崩れ」「笑時露出率」の三要素で評価する。とりわけ笑時露出率は、笑った際に上顎犬歯が唇の外へ出る割合を10回の会話で測定する独自指標であり、版の標準化試案では0.62以上を「顕著」、0.41以上を「準顕著」とした[7]。
理論家たちは、八重歯が単独で魅力を生むのではなく、頬骨の陰影、口元の湿度、相手との心理的距離によって意味が変わると主張した。そのため、同じ歯列でも浅草の寄席では「愛嬌」とされ、銀座の広告写真では「計算された幼さ」として扱われるなど、場面依存性が強いとされた。
一方で、批判的立場からは、八重歯論が実際には「少し乱れた歯並びの印象を社会的に正当化する方便」にすぎないとの指摘がある。だが支持者は、むしろその方便性こそが都市文化の柔軟性を示すものだとして譲らなかった。
社会への影響[編集]
八重歯論の社会的影響は、歯科領域よりもむしろ広告、芸能、写真術において大きかった。1980年代後半には、の駅前看板で「八重歯系の笑顔」を売りにする菓子、清涼飲料水、さらには学習塾まで現れ、名称の乱用が問題になった[8]。
また、NHKの生活情報番組が1991年に放送した「顔は語るか」では、八重歯のある女性の起用が視聴者アンケートで最も記憶に残った一方、「理論が先に顔を作るのではないか」という不気味な感想も寄せられた。これを受け、編集部内では八重歯論を「半科学・半美学・半企画」と呼ぶようになったという。
なお、地方自治体の観光パンフレットにまで波及したこともあり、長崎では「異国情緒の笑顔」と結びつけたキャンペーンが実施されたが、歯科衛生の啓発と混同されて翌年には中止された。
批判と論争[編集]
八重歯論は発表当初から、測定対象の選び方が恣意的であるとして批判を受けた。とくにの一部研究者は、標本が雑誌モデルに偏っており、一般人口を代表していないと指摘した[9]。
さらに、八重歯の「魅力」を肯定する語りが、矯正治療を受ける若年層への圧力を生むのではないかという倫理的懸念も示された。これに対し理論側は、「八重歯論は歯を残せと言う学説ではなく、歯の意味を単純化するなという学説である」と反論したが、説明がやや哲学的すぎたため、新聞社の見出しにはほとんど反映されなかった。
には、大阪のシンポジウムで「八重歯の社会的寿命はすでに終わっている」とする発言が飛び出し、会場が一時騒然となった。しかし翌年、若手クリエイターがSNS前夜の掲示板文化で八重歯を再評価し、理論は図らずも延命したとされる。
後世の展開[編集]
以降、八重歯論は美容医療の外側で、キャラクターデザインやデジタルアバター論に吸収されていった。特に秋葉原の同人誌文化では、八重歯が「記号としての親しみ」を示す装置として再定義され、左側だけ突出した人物像に意味を持たせる作品が増加した[10]。
一方で、海外では「日本的かわいさ」の説明道具として安易に引用されることが多く、フランスのあるデザイン学校では八重歯論を「口元の非対称美学」として講義したところ、受講生の1人が実際に矯正装置を逆向きに付けようとして止められたという逸話が残る。真偽は定かでないが、八重歯論の周辺ではこうした半ば神話化した話が今も流通している。
脚注[編集]
[1] 有馬恒一郎「歯列の社会的読解」『顔貌研究年報』第12巻第3号、1969年、pp. 14-29。 [2] 久保田冴子『都市の笑顔とその周辺』青灯社、1971年。 [3] 斎藤光雄「網点と可愛げの相関に関する覚書」『写真文化通信』Vol. 8, No. 2, 1974年、pp. 51-63。 [4] 顔面微差研究会編『第1回研究記録:本郷会議室メモ』私家版、1968年。 [5] Margaret L. Whitcombe, "Canine Ornament and Social Trust", Journal of Comparative Aesthetics, Vol. 19, Issue 4, 1973, pp. 201-218。 [6] 『顔の経済学』1984年7月号、特集「八重歯と購買意欲」、pp. 22-41。 [7] 日本歯列印象学会『八重歯判定基準暫定案』、1987年。 [8] 佐伯直人「広告における八重歯表象の拡散」『メディアと歯学』第5巻第1号、1990年、pp. 77-88。 [9] 東京医科歯科大学顔貌解析班「八重歯論の再現実験」『口腔社会科学』第2巻第2号、2004年、pp. 9-24。 [10] 小林リカ「アバター表現における左右非対称の記号性」『デジタル審美論集』Vol. 3, No. 1, 2018年、pp. 3-19。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 有馬 恒一郎『歯列の社会的読解』顔貌研究年報, 第12巻第3号, 1969年, pp. 14-29.
- ^ 久保田 冴子『都市の笑顔とその周辺』青灯社, 1971年.
- ^ Margaret L. Whitcombe, "Canine Ornament and Social Trust", Journal of Comparative Aesthetics, Vol. 19, Issue 4, 1973, pp. 201-218.
- ^ 斎藤 光雄『網点と可愛げの相関に関する覚書』写真文化通信, Vol. 8, No. 2, 1974, pp. 51-63.
- ^ 日本歯列印象学会『八重歯判定基準暫定案』歯科文化資料叢書, 1987年.
- ^ 佐伯 直人『広告における八重歯表象の拡散』メディアと歯学, 第5巻第1号, 1990年, pp. 77-88.
- ^ 和田 由紀子『笑顔の温度計』みすず書房, 1992年.
- ^ 東京医科歯科大学顔貌解析班『八重歯論の再現実験』口腔社会科学, 第2巻第2号, 2004年, pp. 9-24.
- ^ 小林 リカ『アバター表現における左右非対称の記号性』デジタル審美論集, Vol. 3, No. 1, 2018年, pp. 3-19.
- ^ Harold P. Winthrop, "The Aesthetic Value of Misaligned Canines", East Asian Visual Studies, Vol. 7, No. 3, 1981, pp. 88-102.
- ^ 『顔の経済学』1984年7月号, 特集「八重歯と購買意欲」, pp. 22-41.
外部リンク
- 日本顔貌文化研究所
- 歯列記号学アーカイブ
- 都市美学資料館
- 八重歯論デジタル年表
- 文京区口元史研究会