十四号命令
| 正式名称 | 十四号命令 |
|---|---|
| 通称 | 第十四号通達、十四号令 |
| 制定主体 | 内閣臨時都市秩序局 |
| 公布日 | 1948年4月14日 |
| 失効日 | 1957年9月30日 |
| 対象地域 | 東京都区部、横浜市、川崎港周辺 |
| 主な目的 | 騒音・匂い・夜間移動の抑制 |
| 関連機関 | 運輸省、厚生省、警察予備庁 |
| 備考 | 記録の一部が焼失しており、条文番号には欠番がある |
十四号命令(じゅうよんごうめいれい、英: Directive No. 14)は、によって制定されたとされる、都市環境の微細な騒音・匂い・人流を同時に統制するための行政命令である[1]。一般には戦時の東京都における生活規律の一環として知られているが、実際には昭和中期の複数の省庁をまたぐ実験的通達群の総称であったとする説が有力である[2]。
概要[編集]
十四号命令は、終戦直後の東京都で急増した闇市、深夜輸送、工場再開に伴う生活摩擦を調整するために作成された行政命令群であるとされる。名称の「十四号」は、同時期に試験施行された命令書の第14番目であったことに由来すると説明されるが、実務上は第9号と第16号の間にしか置けないはずの内容が含まれていたため、当初から官僚間で厄介視されていた[3]。
この命令は、表向きは「都市の静穏確保」を掲げていたが、実際には上野・新宿・の三拠点における物流の偏在を補正するため、音量、照度、匂いの強度、ならびに1時間あたりの徒歩通行量まで数値で指定した点に特徴があった。これにより、当時の新聞は「人の歩き方まで省令化した」と報じた一方、厚生官僚は「むしろ歩幅を整えた初の都市政策である」と反論したとされる。
制定の経緯[編集]
十四号命令の直接の契機は、1947年冬に中央区の魚市場周辺で発生した「夜明け前の一斉汽笛騒動」であったとされる。これは冷蔵設備が不足していたため、荷役業者が合図として一斉に船笛を鳴らし、周辺住民が3日連続で睡眠不足を訴えたことに端を発するという[4]。
命令案の作成には、内務省出身の法制官・渡辺精一郎と、東京帝国大学衛生工学講座の技師・が関わったとされる。渡辺は「命令は簡潔であるほど人を縛る」と主張し、Thorntonは「騒音は音圧ではなく反復間隔で測るべきである」として、当時としては珍しい15分単位の測定方式を提案した。この方式は後に「十四号式パルス測定」と呼ばれたが、実測誤差が最大で±11デシベルに達したため、実務ではほとんど役に立たなかった。
なお、命令原案の末尾には、なぜか品川の旧倉庫地区における鳩の餌やりを禁ずる条項が付されていた。これについては、起草担当の事務官が清書時に別紙を取り違えたとする説と、渡辺が鳩を「非登録移動体」と呼んでいたため故意に追加されたとする説がある。
内容[編集]
静穏条項[編集]
静穏条項では、午後9時以降の金属製荷台の移動を原則禁止し、やむを得ない場合は車輪に麻布を巻くことが求められた。さらに、東京駅半径800メートル以内では、列車到着後の20分間における拡声器の使用を3回までに制限し、4回目以降は事前申請が必要とされた。これに違反した国鉄の運転係は、1952年夏だけで延べ147人に達したとされるが、記録簿の紙質が悪く、全員が同一人物である可能性も指摘されている。
匂い管理条項[編集]
匂い管理条項は、魚介類、燻製肉、塗料、石炭火の4種を「重点嗅覚影響源」と定義し、排出時には街路樹の風下側に位置することを禁じた。とくに築地では、早朝の鰹節削り作業に伴う芳香が問題視され、命令施行後は作業場の天井に高さ2.3メートルの帆布を張り、匂いを上空へ逃がす「逆天蓋方式」が採用された。この方式は近隣住民の評価が高かった一方で、カラスの営巣率を38%押し上げたという報告がある[要出典]。
運用と現場の混乱[編集]
十四号命令は、文面上は全国一律の統制を志向していたが、実際の運用は各区の判断に大きく委ねられていた。特に千代田区では、省庁ごとに解釈が異なり、同一交差点で「静穏区域」「匂い監視区」「通行推奨区」が同時に重なる事態が発生したとされる。
この結果、1949年3月には、霞が関の官庁街で「無音で歩く公務員講習会」が開催された。参加者84名のうち、実際に足音を抑えることができたのは19名のみで、残りは机の引きずり音で再教育を受けたという。講習会を視察した警視庁の担当者は、「命令は音を消したが、書類の音量だけは増えた」と記している。
一方で、飲食業界では命令に適応する独自技術が発達した。新橋の屋台では、鉄板焼きの音を抑えるために焼き面の下に砂を敷く「砂熱板」が考案され、これがのちの無音調理器具の原型になったと主張する業者もある。ただし、砂が高温で飛散して危険であったため、1か月で自主回収された。
影響[編集]
十四号命令は、都市騒音の測定や生活環境規制の概念を広く浸透させた点で評価されている。1950年代後半には、厚生省がこれを参考に「街区別生活静穏基準」を試案し、大阪市や名古屋市でも類似の通達が出されたとされる。もっとも、これらの制度は数値の見た目だけを真似たため、実際には道路工事の開始時刻を15分遅らせただけで終わったという指摘がある。
文化面では、十四号命令は文芸・演劇にもしばしば引用された。とりわけ早稲田の学生劇団が上演した『第十四の沈黙』では、登場人物が全員で沈黙し続けるだけの40分間が話題となり、「最も命令に忠実な前衛劇」と評された。また、同命令を風刺した落語「鳩と汽笛」は、桂派の口演記録に残るものの、実際に誰が演じたかは定かでない。
批判と論争[編集]
十四号命令に対しては、当初から「生活改善を装った過剰統制」であるとの批判があった。とくにの前身団体にあたる研究会は、命令が抽象的な「不快」の概念に依拠していたことを問題視し、同じ匂いでも天候によって違反になるのは法の安定性を欠くと指摘した。
また、1954年の再点検では、条文第14条が本来「予備規定」であるはずなのに、なぜか「夜間の紙袋使用禁止」に差し替えられていたことが発覚した。これについて国立公文書館の複写資料では、鉛筆書きの「14」を誰かが「紙袋」に読み違えた可能性が示されているが、原本が失われたため確証はない。なお、命令の施行終了後も、一部の商店街では「紙袋は静かに渡すべし」という独自の慣習が残った。
その後[編集]
十四号命令は1957年の失効後、すぐに忘れられたわけではなかった。むしろ、都心再開発の進展に伴って再評価され、前後には「都市秩序の先駆け」として紹介されることが増えた。もっとも、再評価に際しては命令内容の大半が削除され、鳩の餌やり条項だけが妙に有名になったという。
1970年代以降は、環境行政史の教材として大学で扱われるようになり、東京大学との合同演習では、学生が十四号命令を現代の騒音条例に置き換える実習が行われたとされる。ただし、演習の最終回で「歩行音の標準化」がテーマになった際、参加学生の一人が本当に足音をメトロノームで計測し始めたため、教室が一時中断されたという。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『戦後都市命令史序説』中央行政研究会, 1961年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Pulse Interval Regulation in Postwar Tokyo,” Journal of Urban Sanitation, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1955.
- ^ 小林晴夫『十四号命令の成立とその周辺』都市政策評論社, 1974年.
- ^ 中島洋子「匂いの法制化と生活規律」『公衆衛生と行政』第8巻第2号, pp. 18-39, 1968年.
- ^ R. K. Bennett, “Administrative Silence and the 14th Directive,” Proceedings of the Eastern Civic Studies Association, Vol. 4, pp. 102-119, 1958.
- ^ 佐伯道隆『鳩の餌やり禁止令の文化史』港湾出版, 1982年.
- ^ 内藤真紀「十四号命令の測定誤差に関する一考察」『計量行政学会誌』第15巻第1号, pp. 5-22, 1971年.
- ^ A. Sutherland, “Smell Zoning in Reconstructed Cities,” City Order Review, Vol. 7, No. 1, pp. 1-14, 1960.
- ^ 工藤一郎『無音で歩く公務員たち』霞関書房, 1990年.
- ^ 北條あかね「第十四の沈黙上演記録」『演劇と制度』第3巻第4号, pp. 88-96, 1979年.
外部リンク
- 内閣臨時都市秩序局アーカイブ
- 戦後都市通達データベース
- 十四号命令研究会
- 近代生活静穏史センター
- 港湾騒音史料室