得三航空
| 正式名称 | 得三航空株式会社 |
|---|---|
| 通称 | 得三航、三得便 |
| 種別 | 地域航空・定期貨物混成 |
| 本拠地 | 北海道札幌市西区 |
| 設立 | 1932年 |
| 創業者 | 高野得三 |
| 主要拠点 | 丘珠仮設飛行場、千歳北分場 |
| 主力機 | TK-3型軽輸送機、TK-7改 |
| 運航方針 | 三便一組制 |
| 備考 | 冬季は橇牽引式の発着補助が併用された |
得三航空(とくさんこうくう、英: Tokusan Airlines)は、北海道の内陸部で発達した“低高度・高頻度”輸送を特徴とする航空事業形態である。もともとは昭和初期に近郊の試験飛行場で始まった農産物輸送の規格から発展したとされる[1]。
概要[編集]
得三航空は、狭義には北海道道央圏を中心に運航された小規模航空会社であるが、広義には「得三式運航規格」を採用した輸送網全体を指す場合もある。貨物・郵便・乗客を同一便に混載し、しかも便名を必ず三つの候補から前夜に決める慣行があったため、運航記録がやや読みにくいことで知られている。
同社はの青果市場と港の物資回送を結ぶために生まれたとされ、のちに旭川、、函館方面へと拡張した。ただし、拡張といっても航路そのものが増えたのではなく、同じ路線を天候ごとに三種類の角度で飛ぶという独特の方式であり、この点に同社の“得三”の由来があるとする説が有力である。
成立の経緯[編集]
創業者の高野得三は、もともとの計量係であり、果菜の痛み具合を「移動時間の短さ」ではなく「振動回数」で管理していた人物とされる。彼が、の臨時飛行展示で輸送箱の固定方法を改良した際、箱を三段階で積み替えるほうが破損率が下がることを発見し、これが三便一組制の原型になったという。
会社設立時の資本金はで、内訳のなかに「防寒毛布費」「搭乗員用昆布茶費」「不時着後の慰問費」が明記されていたとされる。なお、この資本明細は後年の社史編纂で一部改竄された可能性があるともいわれるが、北海道大学の保管庫に残る伝票の余白には確かに“得三式”の走り書きが確認されている。
運航方式[編集]
三便一組制[編集]
得三航空の基本単位は三便であり、午前便・午後便・薄暮便を必ず一組として扱った。いずれか一便が欠航すると、残り二便も「編成上の均衡が崩れる」として繰り下げられることがあり、利用者からは不便である一方、運航管理者からは整然としていると評価された。
低高度航法[編集]
同社は当初、雲底の下を飛ぶことを前提にした低高度航法を採用していた。これは視認性の問題から海上保安庁との間で何度か照会を受けたが、関係者は「雲の下を行くほうが荷が冷えにくい」と説明していたという。実際には、気温の安定よりも、風に乗って滑るため燃料消費を抑えられたことが大きかったとみられる。
主要人物[編集]
高野得三[編集]
高野得三は生まれとされ、青年期に樺太で郵便袋の結び方を覚えた後、へ移ったとされる。性格は几帳面であったが、飛行に関しては妙に大胆で、機体の点検を自ら行いながら「ねじが一本余るくらいがちょうどよい」と語った逸話が残る[要出典]。
羽村キヨ[編集]
操縦士の羽村キヨは、道内初の女性貨物副操縦士として紹介されることが多い。彼女は着陸前に必ず機内の牛乳瓶の本数を数え、一本でも割れていると再離陸を提案したため、乗客からは冷静すぎる人物として半ば伝説化した。
東海林政彦[編集]
整備主任の東海林政彦は、木製プロペラの修理にを用いる独自技法を確立した。のちにこの方法は「冬木取り」と呼ばれ、青森県の小型機整備業者にも流布したが、湿度の高い時期にはほぼ役に立たなかったともされる。
社会的影響[編集]
得三航空の登場によって、北海道内陸の青果流通は一時的に再編され、特にメロン、じゃがいも、花卉の出荷日程が「空模様基準」で決定されるようになった。農家のあいだでは、天気予報より同社の時刻表のほうが信用された時期があり、これは地方経済における航空信仰の一種として研究対象になっている。
また、同社が導入した三便一組制は、後年の地域バスのダイヤ編成や、JR北海道の一部臨時列車の本数調整にも影響したとされる。ただし、直接の因果関係を示す資料は乏しく、関係者の回想も「何となく似ている」という程度である。
批判と論争[編集]
得三航空には、輸送の柔軟性が低いこと、そして「便名が三つあるのに実際には二便しか来ない」ことがあるとして批判が寄せられた。特にの冬季には、発着判断をめぐってとの間で小規模な応酬があり、気象台側が「視程不足」とした一方、同社側は「得三的には可航」と反論したと伝えられる。
さらに、社内規定にあった「搭乗前に昆布茶を一口飲むこと」という条項は、衛生上の観点からの担当官に強く疑義を呈された。しかし社史では、この規定が実際には乗客の落ち着きを保つための心理的措置であり、搭乗率を4.2%押し上げたと主張されている。なお、この数値の算出方法は不明である。
後継事業と消滅[編集]
得三航空は1958年頃に定期運航を縮小し、その後は地方貨物の委託運航と、冬季の緊急物資搬送に特化したとされる。主力機TK-7改の老朽化により、には実質的な運航停止状態になったが、社名はそのまま「空輸の象徴」として残った。
廃業後、元社員の一部は周辺で軽飛行機教習所を開き、訓練生に対し「三回失敗したら一度休め」と教えたという。この教訓は得三航空の三便一組制の精神を簡略化したものと解釈されることがある。
評価[編集]
得三航空は、実用上は非効率であったにもかかわらず、地域の気候・物流・気質を一体化して制度化した点で、後世の研究者から独特の評価を受けている。の一部論考では、同社は「輸送会社であると同時に、冬を飛ぶための社会実験」だったと位置づけられている。
一方で、利用者の証言には誇張も多く、実際には数年で数百便程度の運航にとどまっていた可能性があると指摘されている。ただし、地元の古老の語りでは、吹雪の朝に得三航空のエンジン音が聞こえると市場が先に動き出したという。真偽は定かではないが、そうした記憶のされ方自体が同社の影響力を物語っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高野春彦『得三航空史稿』北海物流出版, 1971年.
- ^ 羽村キヨ『風の下を行く: 道央航空回想録』札幌印刷社, 1984年.
- ^ 東海林政彦「木製プロペラ修理における樹脂含浸の応用」『北海道整備学会誌』Vol. 12, No. 3, pp. 44-59, 1956年.
- ^ M. A. Thornton, "Tri-Flight Scheduling and Rural Cold Chain Logistics," Journal of Northern Transport Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 101-128, 1992.
- ^ 渡辺精一郎『道内小型航空と市場経済』北方大学出版会, 1968年.
- ^ 札幌地方気象台編『昭和二十年代における視程報告の記録』気象資料叢書第4巻第2号, 1950年.
- ^ K. S. Ellison, "Low-Level Flight and Vegetable Freshness in Subarctic Regions," Aeronautical Review Quarterly, Vol. 5, No. 1, pp. 9-23, 1981.
- ^ 『得三航空社内規程集 第3版』得三航空総務課, 1947年.
- ^ 中村保『北海道の空と市場: 便名が三つある理由』新潮地方文庫, 2003年.
- ^ 『北海道工業史研究会紀要』第27巻第1号「得三式運航の制度史」, 2011年.
- ^ L. Bernard, "The Economics of Snowbound Airfields," Transactions of the Polar Commerce Institute, Vol. 19, No. 4, pp. 210-236, 1976年.
外部リンク
- 北海道地方航空史アーカイブ
- 得三航空社史デジタル館
- 札幌市場物流研究所
- 道央冬季輸送資料室
- 北方航空規格協会