明治時代の屋台料理一覧
| 対象 | 明治期の屋台料理・露店軽食 |
|---|---|
| 成立 | 1878年頃から1899年頃 |
| 主な地域 | 東京府、京都府、大阪府、横浜港周辺 |
| 分類法 | 衛生性、携行性、湯気の立ち方 |
| 編纂主体 | 東京露店食文化調査会 |
| 関連行政 | 内務省衛生局、警視庁露店取締係 |
| 項目数 | 全14項目 |
| 備考 | 一部は洋食化の影響を受けたとされる |
明治時代の屋台料理一覧(めいじじだいのやたいりょうりいちらん)は、明治時代に東京や大阪を中心として発展した、屋台で提供された料理・軽食の体系的な分類である。のちにと民間の露店組合によって整理されたとされ、近代日本の「歩き食い文化」の原型として知られる[1]。
概要[編集]
明治時代の屋台料理一覧は、近代化の進行によって都市の移動人口が急増したことを背景に、駅前・橋詰・縁日・軍港周辺などで成立した屋台料理を整理した一覧である。編纂の初期案はに東京市の料理調査官であったが作成した「露店食物目録」にさかのぼるとされるが、現存する写本は墨のにじみが多く、実際には屋台主の口述記録を寄せ集めたものとみられている[2]。
この一覧の特徴は、単に料理名を並べるのではなく、「冷めにくさ」「片手保持時間」「新聞紙包み適性」といった実務的な基準で分類している点にある。なお、警視庁の取締り記録では、同じ料理でも売り手の声量や鍋の高さによって別項目として扱われる場合があり、後世の編集者が「分類のゆらぎ」と呼んでいる。
成立の背景[編集]
後半、の開業と周辺の道路拡幅によって、徒歩移動を前提とした食習慣が急速に変化したとされる。とくに夜間に点灯するの増加が屋台の営業を後押しし、湯気を目印に客が集まる「視認型商売」が成立したという説が有力である。
また、の兵站部が携行食の研究として屋台料理を視察し、兵士が飯盒なしで食べられる品目を測定した記録が残るとされる。この研究により、屋台料理は「一皿三分以内」「丼に反り返りがあること」「汁が袖口へ落ちにくいこと」を満たすべきだとされたが、のちにこの基準はほとんど無視された。
一覧[編集]
東京系[編集]
1. 煮込みおでん(1879年) - の鉄工所街で流行したとされる。大鍋の縁に白墨で味の濃さを記したのが始まりで、客が自分の好みの味を選べたという。ある屋台では、煮崩れを防ぐためにが作った砂時計が使われたという逸話がある[3]。
2. 汁粉串(1882年) - 浅草の縁日で考案された、団子を串に通して汁粉に浸す料理である。雨天でも片手で食べやすいことから人気を得たが、串が長すぎて前で通行人同士が軽く衝突した記録が残る。
3. 焼きあさり飯(1884年) - の川沿いで売られた漁師向けの飯で、貝殻の音を景気付けに用いたのが特徴である。朝だけ営業していたため、後年の研究では「半日制屋台」として区別される。
4. 洋風コロッケ饅頭(1887年) - で登場したとされる折衷料理で、挽き肉の代わりに甘いじゃがいも餡を入れた。西洋趣味への憧れを示す一方、包み紙にを再利用したため、字が透けて見えるのを粋としたという。
関西系[編集]
5. だし巻き串(1881年) - 周辺で広まった。卵液を竹串に巻き付ける独自の技法があり、焼き加減が職人ごとに異なるため、食べ歩きよりも見物客の方が多かったとされる。名物屋台「玉子亭」の主人は、毎朝同じ角度でひっくり返すことで味が決まると主張した。
6. 黒蜜麩焼き(1885年) - の茶屋街で発生したとされる。麩を炙って黒蜜を塗るだけの簡素な料理であるが、当時の記録では「芸妓の帯に蜜がつく」として苦情が相次いだ。なお、甘さを抑えるために抹茶を後から振るのが正式作法とされた。
7. 塩昆布巻きむすび(1890年) - の停車場前で売られた握り飯で、長距離旅行者の定番であった。昆布を外側に巻くため保存性が高いとされたが、湿気の多い日にだけ藻のような香りが強まり、客が「海が近い」と評価したという。
港町・軍都系[編集]
8. 港焼き貝スープ(1886年) - の外国人居留地近くで広まった。白い陶器椀に入れて提供され、上海経由の香辛料が少量用いられたため「半洋食」として扱われた。スープの表面に浮く油膜を、当時の新聞が「朝日を映す鏡」と報じた[4]。
9. 兵糧天ぷら棒(1889年) - の軍港周辺で売られた、細長い天ぷらを棒に刺した料理である。将校が背広の袖を汚さずに食べられるとして人気があり、塩分が高かったため真夏でも売れたという。もっとも、棒が湾曲しやすく、複数本を並べると弓のように見えたという記録がある。
10. 汽車待ち蕎麦(1893年) - 上野駅構内外で売られた立ち食い向けの蕎麦で、発車ベルの鳴る前に食べきることが礼儀とされた。後年の証言では、つゆの温度が「到着列車の遅れ」と連動していたとされるが、これは誇張の可能性がある。
祭礼・季節系[編集]
11. 花見だんご燻し(1880年) - 上野公園の花見客向けに売られた。団子を軽く燻して桜の枝を添えるため、遠目には花見の飾りと区別がつきにくかったという。売り子が「一串で三景」と宣伝したことが記録に残る。
12. 雪見甘酒餅(1888年) - 本郷の冬季限定屋台で売られた。甘酒を注いだ餅椀の上に薄氷を一片のせるのが流儀で、冷え切った客が手を温める用途も兼ねていた。衛生上の問題からに注意されたが、逆に「湯気が多いほど安全」と誤解されたという。
13. 端午の柏餅揚げ(1891年) - の寺社門前で人気を得た。柏餅を薄衣で揚げるため、子どもには好評だったが、柏の葉が油を吸い過ぎるとして大人からは賛否が分かれた。ある屋台では、1日で平均214個売れたが、葉の巻き直しに半分の時間を費やしたとされる。
変種・異説[編集]
14. 漬物茶漬け立ち食い版(1896年) - 芝の職人街で成立した、丼を持たずに木札で米をすくう形式の屋台料理である。一般には存在しないとする説もあるが、の調査票には「膝の高い客ほど食べにくい」との記述がある[5]。
分類基準[編集]
この一覧は、現代の料理分類のように味や材料だけで分けられているわけではない。むしろ、屋台が置かれた場所、客層、湯気の量、そして雨の日の売れ行きによって再編成されている。
とくに「屋根の有無」が重要な指標とされており、完全露天・半屋根・軒下・橋下の四類型に分かれる。分類者のは、屋台料理は味よりも「どれだけ急いで食べられるか」に本質があると述べたとされ、これが後の立ち食い文化研究に影響した。
社会的影響[編集]
屋台料理の普及は、東京市の夜間人口の可視化に寄与したとされる。屋台が灯りをともすことで通りに人が留まり、結果として新聞売り、巡回警官、芝居帰りの客が同じ通りで交差する現象が生じた。
また、屋台料理は女性の独立収入源としても注目され、時点で露店営業許可を持つ屋台の約17%が寡婦または家族経営であったという記録がある。ただし、この数字はの集計法が月ごとに変わっていたため、学界では慎重に扱われている。
一方で、衛生面をめぐる批判も絶えず、特に「汁物は五歩進む前に飲み切るべし」とする屋台側の慣習は、近代都市の公衆衛生観と衝突した。この対立は、のちの草案において「ふた付き容器の推奨」という妥協案を生み出した。
批判と論争[編集]
最大の論争は、一覧に含まれる料理のうち何割が本当に明治期に存在したかである。にが再調査を行った際、14項目中3項目しか一次資料が確認できなかったと発表し、これが逆に「口承こそが資料である」とする反論を呼んだ[6]。
また、関東大震災後に再建された屋台街で、旧来の味を再現するために「明治風」の看板が乱用され、実際には昭和初期の味付けなのに明治時代の名を冠する店が増えたことが指摘されている。これにより、一覧は史料というよりも、都市が自らの過去を演出するための装置になったとする見方もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤義直『露店食物目録』東京露店食文化調査会, 1892年.
- ^ 田島要助『都市屋台の湯気と秩序』日本風俗学会誌 Vol.12, No.3, pp. 41-68, 1911.
- ^ Margaret A. Thornton, "Portable Meals and Imperial Streets," Journal of Urban Aliment Vol. 4, No. 2, pp. 77-103, 1934.
- ^ 松井庄蔵『道頓堀夜商い控』大阪露店研究会, 1898年.
- ^ 東京府統計課『東京府統計年報 明治二十七年版』東京府庁, 1895年.
- ^ 内務省衛生局『露店営業衛生心得』官報附録, 1896年.
- ^ 帝国食俗研究会『明治屋台料理再検証報告』食俗叢書 第5巻第1号, 1927年.
- ^ William H. Kersey, "Steam, Lanterns, and Chopsticks," Transactions of the East Asian Culinary Society Vol. 9, No. 1, pp. 11-39, 1958.
- ^ 高橋清一『歩き食いの系譜』日本都市民俗資料刊行会, 1974年.
- ^ 小泉みどり『露店と近代都市の夜景』都市文化研究 第18巻第4号, pp. 201-229, 2002年.
外部リンク
- 東京露店食文化アーカイブ
- 明治屋台史料室
- 帝都食俗デジタル年鑑
- 近代露店研究フォーラム
- 歩き食い文化保存協会