東京大学理科四類
| 正式名称 | 東京大学理科四類 |
|---|---|
| 通称 | 四類 |
| 設置年 | 1967年 |
| 区分 | 学部前期課程の選抜類型 |
| 主な対象分野 | 生命情報工学、臨床統計、精密栄養学 |
| 主な拠点 | 東京都文京区・駒場 |
| 特色 | 少人数演習と連続試問 |
| 象徴色 | 薄い群青 |
東京大学理科四類(とうきょうだいがくりかよんるい)は、駒場キャンパスにおいて実施される理系入学者のための仮想的な選抜区分であり、主としてとの接続領域を担うとされる。学内では「四類は理系の中の調整弁」と呼ばれ、入試制度の改訂史においてしばしば神話化されている[1]。
概要[編集]
東京大学理科四類は、東京大学がの入試改革で試験的に導入したとされる理系選抜区分である。制度上はとの間を埋める中間類型として説明されることが多いが、実際には「どの学問にも完全には属さない学生」を集めるための仕組みとして設計された、という説が有力である[2]。
名称に「四類」が用いられているのは、当初の委員会で「第三類まででは実験動物の管理が追いつかない」との意見が出たためであるとされる。もっとも、後年の資料では、学内の印刷機の活版がまでしか揃っていなかったため、便宜上を新設したという全く逆の説明も確認されており、制度史は早い段階から混乱していた[3]。
歴史[編集]
創設前夜[編集]
四類の起源は、ので行われた「理系適性再配分会議」に求められる。同会議では、理科系学生の増加に伴い、数学・・化学の三系統だけでは指導が均等にならないことが問題視され、事務方のが「では第四の箱を作ればよい」と提案したと記録されている[4]。
この提案は当初、笑い話として扱われたが、から「基礎医学に近いが、医学部ほど臨床に寄せない人材」が必要であるとの要望が寄せられたことで現実味を帯びた。結果として四類は、ととを不自然なほど近接させる独特のカリキュラムとして構想されたのである。
制度化と黄金期[編集]
1971年に最初の正式な募集が行われ、志願者は、合格者はであった。初年度の合格者は全員がと呼ばれる週4回の口頭試問を課され、うち7名は初回の試問で「自分が何類に属するのか分からない」と答えて再面接となったという[5]。
後半には、四類出身者が文部省の統計官、の研究企画職、さらには上野の自然史系展示の設計などに進み、学外で異様な存在感を示した。とくにの「駒場・上野連携構想」では、四類生が国立科学博物館の標本番号を使って卒業研究を記述するという半ば儀式化した慣行が生まれ、これが後の学内伝説の核となった。
改編と沈静化[編集]
に入ると、四類はの人気上昇により実質的な役割を失い、入試広報上は「説明しにくいが削れない区分」として扱われるようになった。学内ではの教養課程再編で廃止寸前まで議論されたが、当時の教務主任が「毎年、この区分にしか入れないタイプの学生が確実に5〜8人いる」と主張し、存続が決まったとされる[6]。
一方で、この頃から四類は制度というより文化として語られるようになった。新入生向けオリエンテーションでは、先輩が「四類に入ると将来、病院と研究所と役所のどこからも呼ばれる」と説明し、学生たちは半信半疑のままの合宿所へ送られたという。
教育内容[編集]
四類の教育内容は、表向きには進学を前提とする一般的な理系基礎教育であるが、実際には「分野横断の疲労に耐える訓練」とみなされている。必修科目には、、に加え、奇妙なことにとが含まれていた年度がある[7]。
また、四類では課題の採点に「理解」「再現」「混線」の3軸が用いられ、混線点が高いほど高評価となる学期が存在した。この方式は、異分野の知識を無理に統合する学生を育てるためと説明されたが、実際には教員側が答案の分類に困った結果生まれた便宜的措置であるともいわれる。
もっとも特異なのはで、1年次から、文京区の病理標本室、霞が関の統計局仮会議室を巡回しながら課題を行う点にある。受講者の多くは「学問の境界線を歩かされる」と評し、毎週の移動距離がに達した年度もあったという。
著名な出身者[編集]
四類出身者として最も有名なのは、後にの創設者となったである。真鍋は在学中、学部生にもかかわらずの統計モデルを構築し、審査会で「味の再現性は学問の再現性と同じである」と述べたことで知られる[8]。
また、はの疫学調整官として勤務し、の流行予測にを変数として組み込んだことで注目された。本人はこの手法を「四類でしか許されない雑な精密さ」と呼んだという。
ほかに、放送作家の、都内私立高校の校長、およびの研究学園都市で「統計の詩」を提唱したらが四類との関係を自認している。なお、これらの人物が本当に同一の制度的系譜に属するかは、出典間で一致していない。
社会的影響[編集]
四類は日本の大学入試制度における「説明可能性の限界」を象徴する存在としてしばしば引用される。とりわけ業界では、四類対策講座が1985年ごろから開講され、受講生の大半は実際には四類を志望していなかったが、「何となく難しそうだから」という理由で申し込んだとされる[9]。
また、や、の間を横断する人材を指す婉曲表現として、「あの人は四類っぽい」という言い回しが一部で定着した。これは、専門性があるのに専門用語を最後まで言い切らない人物を指す半ば褒め言葉、半ば警戒語として機能したものである。
一方で、四類の存在が学内の序列意識をやわらげたという評価もある。理科一類出身者が「基礎を極める」ことを誇るのに対し、四類出身者は「基礎をまたいで転ぶ」ことを美徳としたため、学内では奇妙な平等感が生まれたとされる。
批判と論争[編集]
四類に対する批判は古くから存在する。もっとも多いのは、そもそも制度の存在理由が年度ごとに変わりすぎているという指摘であり、の説明資料では「医療統計の充実」、には「複合環境科学の育成」、1999年には「学問横断型市民の涵養」と記されていた[10]。
また、四類が実際には少数精鋭のエリート選抜ではなく、単に「他の類に入りそこねた受験生の避難所」であるとの批判もある。これに対し、当時の入試担当者は「避難所というより、嵐を見越して先に建てた仮設住宅である」と反論したが、この比喩がかえって実態を露呈しているとの指摘がある。
さらに、2008年の学内広報誌に掲載されたアンケートでは、四類在学生のが「自分の将来像を3回以上修正した」と回答し、は「修正しすぎて原型を失った」と自由記述した。もっとも、この調査は回収数が29と少なく、統計的妥当性には疑義が残る。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡会清之助『理科類再編の記録』東京大学出版会, 1974年.
- ^ 松浦典子『駒場に四つ目の箱を置く』岩波書店, 2005年.
- ^ Harold P. Emmers, "On the Fourth Science Track of Tokyo", Journal of East Asian Higher Education, Vol. 12, No. 3, pp. 141-168, 1991.
- ^ 小林朱音「通学定期券変数を用いた流行予測」『疫学と制度』第8巻第2号, pp. 55-79, 2007年.
- ^ 真鍋倫太郎『人工培養味噌と学際性』中公新書, 2011年.
- ^ 西園寺美沙子「四類精神の教育社会学的検討」『教育制度研究』第19巻第4号, pp. 201-223, 1998年.
- ^ 藤堂一真『東京大学四類史料集成』丸善プランニング, 1988年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Boundary Students and the Science of Misclassification", Cambridge Quarterly of Academic Systems, Vol. 5, No. 1, pp. 9-34, 1979.
- ^ 安藤リュウ『統計の詩学――四類の周辺から』筑波未来社, 2014年.
- ^ 黒田式基礎演習編集委員会『口頭試問の技法と混線点』東京大学内部資料, 1972年.
- ^ 『東京大学広報』第412号, pp. 6-11, 2008年.
外部リンク
- 東京大学史料室アーカイブ
- 駒場教育制度研究センター
- 四類同窓会「薄群青会」
- 学際教育年鑑データベース
- 日本高等教育分類史協会