湯花 日高
| 氏名 | 湯花 日高 |
|---|---|
| ふりがな | ゆばな ひだか |
| 生年月日 | 1912年4月17日 |
| 出生地 | 北海道十勝郡芽室村 |
| 没年月日 | 1987年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 調教師 |
| 活動期間 | 1934年 - 1982年 |
| 主な業績 | 湯花式調整法の確立、牧場移動訓練の制度化 |
| 受賞歴 | 日本馬事功労章、北海道畜産振興特別表彰 |
湯花 日高(ゆばな ひだか、 - )は、日本の。の近代化と、の考案者として広く知られる[1]。
概要[編集]
湯花 日高は、日本の競馬史において、という職能を単なる管理職から「馬体設計の技術者」へと押し上げた人物である。特に函館との厩舎運用において、気温・湿度・飼料発酵・歩様の変化を一体で管理する手法を導入したことで知られる[1]。
彼の名は、のちに「湯花式」と総称される一連の調整法とともに語られたが、本人は生前、これを体系化された学理ではなく「雨の日に馬が機嫌を崩さないための工夫」と呼んでいたとされる[2]。ただし、日本中央競馬会の内部記録には、彼の指導下で17頭中12頭が“出走前の落ち着き”を改善したという記述があり、当時としては異例の高評価であったとされる[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、北海道の十勝地方に生まれる。日高家はもともと開拓農家であったが、父・日高庄助が地元のの手伝いをしていた関係で、幼少期から馬房と牧草地の往復の中で育った。湯花は6歳のころ、夏場に馬が汗をかいた直後に風を当てると体調を崩すことに気づき、母が煎じていた薬湯の桶に手を入れて温度差を測ったという逸話が残る。
青年期[編集]
に系の獣畜講習所へ進み、とを並行して学んだ。ここで彼は、指導教官のに師事し、馬の筋肉疲労は単なる運動量ではなく、飼料の発酵温度と換気の偏りに左右されるという独自の仮説を培ったとされる。なお、同級生の証言によれば、湯花は講義中にノートの余白へ「湿度は音でわかる」と書き残していたという[要出典]。
活動期[編集]
1934年、函館競馬場付属厩舎で助手として採用され、翌年には正式に調教師補となった。初期は勝率よりも馬の離脱率を下げることを重視し、厩舎内の床材を樺太産のチップから産の乾燥藁へ変更、さらに夜間はの配置を偶数に固定するなど、細部にこだわった管理を行った。
には、出走直前の馬体温を前後に揃える「定温出馬法」を導入した。これが後年の湯花式の原型であるとされ、同年の前哨戦では、彼の管理する2頭が同時にパドックで静止しすぎて係員に心配されたという珍事もあった。
晩年と死去[編集]
に入ると、湯花は現場から退き、の研究牧場で後進指導に専念した。晩年は馬の歩様を人間の足音で判定する方法に執着し、来客にも長靴で土間を3回踏ませてから面会したという。
9月3日、で死去した。死因は老衰とされるが、最期まで枕元にを置いていたことから、弟子の間では「最後まで厩舎を離れなかった男」として語り継がれている。葬儀には日本中央競馬会関係者のほか、地方競馬の厩務員が延べ参列したと記録される。
人物[編集]
湯花は寡黙で頑固な人物であったが、馬に対しては異常なほど繊細であったといわれる。馬房の扉が軋む音だけで翌日の調整を変えたという証言が複数あり、弟子のあいだでは「人より先に床を見る男」と呼ばれていた。
一方で、数字に対する執着も強く、飼料の配合は必ずの比率に揃えるよう求めた。これを守らないと自ら秤を持って厨房に現れたため、厩舎の炊事係からは半ば恐れられていたという。なお、彼は東京への出張時でも必ず地元の乾燥藁を2束持参したとされる。
逸話として有名なのは、の大雪の日、出走を嫌がった馬に対し、日高が「お前は寒いのではない、空気が重いのだ」と言って窓を3cm開けただけで落ち着かせた話である。このエピソードは弟子たちが面白がって広めた節もあるが、のちに講義録へ採録されたことで半ば公式の逸話となった。
業績・作品[編集]
湯花式調整法[編集]
湯花の最大の業績は、競走馬の調整を「運動」「休養」「環境」の三要素に分け、日次単位で再設計したである。これは、馬体を鍛えることだけを目的とせず、発汗量、寝藁の厚み、厩舎内の会話量まで含めて調整対象とした点に特徴があった。
とくに有名なのが「静養後二度歩かせ」の原則で、休ませた馬を一度だけでなく二度歩かせることで、気分のむらを確認するという方法である。後年、の一部厩舎でも類似法が採用されたが、湯花はこれを「模倣ではなく、風土の翻訳である」と評したとされる。
牧場移動訓練の制度化[編集]
彼はまた、から函館、さらにへと移動する際の馬の心理変化を研究し、輸送後48時間以内は速歩を課さないという内部基準を整備した。これにより、長距離輸送後の凡走率が約低下したとする報告があるが、集計方法についてはなお議論がある[4]。
この制度化は、のちに地方競馬の輸送マニュアルにも影響し、後半の馬資源不足期においても、比較的安定した成績維持に寄与したとされる。もっとも、彼自身は「制度は便利だが、馬は制度を読まない」と述べたという。
著作[編集]
著作としては、『厩舎の温度学』、『馬が黙るとき』、『風の向きと蹄の音』などがある。とくに『厩舎の温度学』は、に私家版としてのみ刷られたが、後に関係者間で写本が広まり、の研修資料に引用された[5]。
また、彼は論文というより覚え書きの形で多数の記録を残しており、末期のノートには「湿度が68%を超えると、馬は人間の話を聞いているふりをする」と書かれていた。これは比喩として解釈される一方、厩務員のあいだでは半ば実験結果として扱われた。
後世の評価[編集]
湯花日高の評価は、当初は地方厩舎の奇人という程度であったが、後半から再評価が進んだ。とりわけの研究者たちは、彼の記録が現代のに先行する観察を含んでいると指摘している。
一方で、彼の方法は科学的根拠が曖昧なものも多く、特に「馬房の東西配置が勝率に作用する」とする部分には異論が多い。これについては、弟子の一人が方位磁針を3年間にわたって厩舎に埋めた結果、かえって人間のほうが落ち着かなくなったという報告もあり、実務上の限界が示唆された。
とはいえ、北海道の競馬関係者のあいだでは、湯花の名は今なお“整える人”の代名詞として残っている。毎年には浦河町の有志による「湯花忌」が行われ、厩舎前で湯気の立つ麦茶を供える慣例があるとされる。
系譜・家族[編集]
父は日高庄助、母は日高トメ。兄に日高辰吉、妹に日高ミサエがいたとされ、日高家は五人家族であった。庄助は農耕馬の扱いに長け、湯花はその影響を強く受けたとみられる。
結婚は1941年、の薬種商の娘であったとされ、二男一女をもうけた。長男のはとなり、次男のはの計量係を務めた。長女のはのちに北海道大学で家畜環境学を学び、父のノートを整理して注釈を付したことで知られる。
なお、晩年の湯花は「血縁よりも厩舎縁のほうが強い」と語ったとされ、門下生のうち8名を養子同然に扱ったという記録もある。これにより、湯花家は実質的に“弟子を含む拡張家族”として機能していたとする見方がある。
脚注[編集]
脚注
- ^ 佐伯寛之『厩舎温度と発汗制御』日本馬事学会誌 Vol.12, No.3, pp. 41-67, 1964.
- ^ 湯花澄江『湯花家記録ノート』帯広郷土研究会, 1991.
- ^ 渡会正彦「地方競馬における輸送後48時間管理の変遷」『畜産科学評論』第8巻第2号, pp. 15-33, 1978.
- ^ Margaret L. Thornton,
- ^ Journal of Equine Environmental Studies, Vol. 5, Issue 1, pp. 88-109, 1972.
- ^ 北村祐司『馬房方位と成績相関の実証』札幌畜産大学出版会, 1980.
- ^ 小泉瑠璃子「湯花式調整法の受容と変形」『競馬文化研究』第19号, pp. 201-228, 2004.
- ^ Arthur P. Bell, “Stable Humidity and Quiet Gait in Postwar Japan”, Bulletin of Applied Equitation, Vol. 3, No. 4, pp. 9-26, 1959.
- ^ 北海道馬事史編纂委員会『北海道競馬百年史』北海タイムズ社, 1988.
- ^ 中山厩舎史料保存会『昭和後期厩舎運用手帳』私家版, 1976.
- ^ 石黒慎太郎「馬は人間の話を聞いているふりをするか」『動物行動ノート』第2巻第6号, pp. 77-90, 1966.
外部リンク
- 日本馬事史研究会
- 北海道競馬資料室
- 浦河町厩舎文化アーカイブ
- 湯花日高記念調整法研究所
- 十勝畜産民俗データベース