猶八
| 氏名 | 猶八 俊介 |
|---|---|
| ふりがな | なおはち しゅんすけ |
| 生年月日 | 1887年3月14日 |
| 出生地 | 日本・福井県今立郡志津村 |
| 没年月日 | 1954年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、方言採集家、講演家 |
| 活動期間 | 1909年 - 1953年 |
| 主な業績 | 猶八式口伝整理法、三段返し採録帳、夜間談話会の制度化 |
| 受賞歴 | 地方文化功労表彰(1948年)、京都帝国大学臨時紀要特別謝辞(1937年) |
猶八 俊介(なおはち しゅんすけ、 - )は、日本の民俗記録家、並びに「猶八式口伝整理法」の創始者である。村落口承の採録と再編成における独自理論で知られる[1]。
概要[編集]
猶八 俊介は、明治末期から昭和中期にかけて活動した日本の民俗記録家である。とくに北陸地方の口承資料を、独自の符号と復唱形式によって整理したことで知られる[1]。
本人は学者を自称しなかったが、実際には東京府下谷の私設講読会や京都帝国大学の周辺サークルに出入りし、農村の年中行事・怪異譚・慣用句を横断的に集めたとされる。後年、その方法は「猶八式口伝整理法」と呼ばれ、戦後の地域史編纂にも影響を与えた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
猶八は、福井県今立郡志津村の紙漉き農家に三男として生まれた。幼少期から祖母の語る夜話を逐語的に書き取る癖があり、村では「聞いたものを半日で帳面に変える子」と呼ばれていた。
には寺子屋の師匠・西尾定次郎に師事し、算術よりも写字と聞き取りの成績が突出していたという。なお、同年の冬に雪害で一家の紙床が流失し、この時の復旧作業で村の古老たちの会話を大量に記録したことが、後の採録活動の原点になったとされる[3]。
青年期[編集]
、の県立師範講習所に入るが、規則正しい授業よりも、寄宿舎で行われる方言の言い換え遊びに熱中した。ここで知り合った松浦兼吉の勧めにより、各地の伝承を「発音」「語尾」「沈黙の長さ」に分けて分類する試みを始めた。
には東京市神田で開かれた教育雑誌の座談会に参加し、口承資料の採取に「紙と鉛筆より先に相槌が必要である」と発言して物議を醸した。記録によれば、この発言は会場の準備会の一部会員に強く支持され、その後の夜間採録会の発足につながったという[4]。
活動期[編集]
の関東大震災後、猶八は一時的に横浜の復興記録作業に関わり、避難所で聞き取った噂話を「被災後言説」として独立項目化した。これは当時としては珍しい試みであり、噂の拡散経路を地図上に赤線で示した『三段返し採録帳・震災篇』は、のちに内務省系の調査官が参考にしたともいわれる。
代に入ると、彼は京都とを往復しながら、農閑期の講演会を月平均14回の頻度で行った。聴衆は多くても30名程度であったが、猶八は人数を重視せず、「ひとりが三度うなずけば資料価値は九人分になる」として、反復聴取を制度化した。なお、この独特の式は後年「猶八換算」と俗称された[5]。
晩年と死去[編集]
、地方文化功労表彰を受けた頃には、猶八はすでに視力をかなり失っていたが、録音機器の導入には慎重であった。理由は「機械は沈黙を取りこぼす」からだとされる。
11月2日、京都市左京区の借家で死去。満67歳であった。死後、遺品の木箱から未整理のメモが4,218枚見つかり、その中には「猶八は本名ではない」という走り書きが含まれていたが、出所不明のため現在も真偽は確定していない[6]。
人物[編集]
猶八は温厚であったが、記録の不備には異様に厳しかった。とくに「月」と「つき」の違いを曖昧にした原稿には、朱筆で七か所以上の修正を入れたという。
また、彼は相手の話をさえぎらずに聞く一方、話し終わった直後に必ず同じ内容を少しだけ違う順序で復唱させた。これにより、話者自身が気づかなかった語順の癖を抽出できると考えていたらしい。弟子の田辺秋枝は回想録で「猶八先生は、沈黙している時間のほうが長く、その沈黙が一番雄弁であった」と述べている[7]。
逸話として有名なのは、に石川県輪島で講演した際、聴衆の一人が方言を誤って笑われたことに対し、猶八が「笑いは音声であるが、恥は記録に残る」と諭した件である。これを機に、彼の講演会では「訂正の前に一呼吸おく」ことが礼法として定着した。
業績・作品[編集]
猶八式口伝整理法[編集]
猶八の代表的業績は、口承を三回に分けて採録する「猶八式口伝整理法」である。第一回は原文のまま、第二回は語順を保った要約、第三回は話者に誤りを自ら指摘させる再聴取とされ、これにより記憶の揺れが可視化されると主張した。
この方法は1932年ごろからの郷土資料整理に応用され、年間約1,200件の口述カードが作成されたという。もっとも、当時の職員の間では「分類は優れているが手間が三倍」とも評された[8]。
主な著作[編集]
著書には『三段返し採録帳』()、『方言の沈黙学』(1934年)、『夜間談話会記録法試論』(1941年)などがある。とくに『方言の沈黙学』は、文字化しにくい間投詞や、話し手が言い淀む箇所を記号化したことで知られる。
また、の小冊子『村の噂はどこへ行くか』では、噂話が橋・市場・寺の三点を経由して増幅するとする「三角伝播説」を提示した。のちに東京帝国大学の一部研究者がこれを参照したとされるが、本人は「学説というより雨の日の観察」であると語ったという。
講演活動と制度化[編集]
猶八は各地で夜間談話会を開き、農閑期の集会所やに照明を落として、話者の緊張を下げる方法を採った。照度を80ルクス前後に保つと、昔話の再現率が上がるという独自の経験則を持っていた。
この運営法は一部の教育委員会に採用され、戦後の地域では「語り部保存事業」の原型になったとされる。ただし、資料の多くが猶八本人の手控えに依存しているため、後世の研究者からは「制度化された個人芸」とも評されている[9]。
後世の評価[編集]
猶八の評価は、戦前には「地方の変わり者」から「現場主義の記録家」へと揺れ動いた。戦後はの再編とともに再評価され、1958年には金沢大学の紀要で特集が組まれた。
一方で、記録の厳密さに比して理論の飛躍が大きいことから、後世の研究者の間では賛否が分かれている。特に「沈黙も方言の一種である」とする彼の主張は、現在でも注釈付きで引用されることが多い。また、に入ると一部の地域史サークルで神格化が進み、猶八の名を冠したノート用紙まで市販されたが、本人との関係はないとされる[10]。
系譜・家族[編集]
猶八の父・猶吉は紙漉き職人、母・とみは近隣の口碑をよく覚える人物であった。兄の猶作は大阪の印刷所に勤め、弟の猶平はで教師となった。家系としては農家であるが、いずれも文字と記憶の扱いに何らかの偏りがあったと伝えられる。
妻の田村はるはに結婚し、夫の採録活動に同行して帳面の見出し作成を担った。子は二男一女で、長男の俊郎は戦後に福井県立図書館へ勤務し、父の遺稿整理に関わった。なお、孫の代になると「猶八」という名は姓でも通称でもない、家の中だけの符牒として使われるようになったという[11]。
脚注[編集]
[1] 猶八俊介『三段返し採録帳』私家版、1928年。
[2] 佐伯正雄「口伝整理の制度化と地域史」『北陸民俗研究』第12巻第4号、1959年、pp. 41-58。
[3] 志津村誌編纂委員会『志津村誌』志津村役場、1931年、pp. 212-214。
[4] 松浦兼吉「下谷座談会回想」『教育資料月報』第8巻第2号、1924年、pp. 9-13。
[5] 田辺秋枝『夜間談話会の方法』新風書房、1961年、pp. 77-81。
[6] 「猶八俊介遺品目録」『京都郷土史料通信』第3号、1955年、pp. 2-7。
[7] 田辺秋枝『聞き取りの沈黙』白林社、1968年、pp. 118-121。
[8] 福井県立図書館編『郷土資料整理年報 昭和七年版』福井県立図書館、1933年、pp. 5-19。
[9] 山岸清一「地域語り部事業の成立」『民俗政策研究』Vol. 4, No. 1、1972年、pp. 22-35。
[10] 柴田友一『戦後民俗学史ノート』青陵出版、1984年、pp. 203-206。
[11] 猶八家文書整理室『猶八家系録』未刊行資料、1979年。
脚注
- ^ 猶八俊介『三段返し採録帳』私家版, 1928.
- ^ 佐伯正雄「口伝整理の制度化と地域史」『北陸民俗研究』第12巻第4号, 1959, pp. 41-58.
- ^ 田辺秋枝『夜間談話会の方法』新風書房, 1961, pp. 77-81.
- ^ 松浦兼吉「下谷座談会回想」『教育資料月報』第8巻第2号, 1924, pp. 9-13.
- ^ 福井県立図書館編『郷土資料整理年報 昭和七年版』福井県立図書館, 1933, pp. 5-19.
- ^ 山岸清一「地域語り部事業の成立」『民俗政策研究』Vol. 4, No. 1, 1972, pp. 22-35.
- ^ 柴田友一『戦後民俗学史ノート』青陵出版, 1984, pp. 203-206.
- ^ 田辺秋枝『聞き取りの沈黙』白林社, 1968, pp. 118-121.
- ^ 志津村誌編纂委員会『志津村誌』志津村役場, 1931, pp. 212-214.
- ^ 黒沢峻『沈黙を採る人びと』風鳴館, 1976, pp. 55-63.
外部リンク
- 北陸口伝資料アーカイブ
- 京都郷土史料研究会
- 福井民俗記録データベース
- 昭和口承文化センター
- 猶八記念事業会