獣士恩雷
| 名称 | 獣士恩雷 |
|---|---|
| 読み | じゅうしおんらい |
| 英語表記 | Jushi Onrai |
| 成立 | 1897年ごろと推定 |
| 提唱者 | 渡瀬寛次郎、エイミー・L・ハルバートンほか |
| 主な地域 | 北海道、東北地方、関東北部 |
| 性質 | 儀礼語・観測符牒・民間制度 |
| 関連機関 | 雷候観測協会、帯広地方雨量連絡所 |
| 主要文献 | 『獣士恩雷考』ほか |
獣士恩雷(じゅうしおんらい、英: Jushi Onrai)は、明治末期に北海道の周辺で成立したとされる、獣士と呼ばれる調停役が雷鳴の発生状況を記録するために用いた儀礼的な符牒である[1]。のちに農商務省の準外郭団体であるによって制度化され、半ば天候行政、半ば民間信仰として広まったとされる[2]。
概要[編集]
獣士恩雷は、雷鳴の回数、鳴動の向き、湿度の急変を符号化するための口伝体系であるとされる。一般にはという語が「獣害対策を担う半公的な巡回員」を意味し、恩雷は「雷を恩恵として扱う」ことから転じたと説明されるが、実際には帯広の市場監督であったが、の春雷被害を受けて考案した帳簿上の注記法に由来するという説が有力である[3]。
この体系は、単なる天候メモではなく、村落間の連絡、家畜の避難、祭礼の延期判断を同時に担ったため、当時の行政文書ではしばしば「半分は科学、半分は縁起」と記されている。なお、の気象関係者が1920年代に再評価したことで、獣士恩雷は一時期「日本最初期の地域気象インターフェース」と呼ばれたことがある。
定義の揺れ[編集]
文献によっては、獣士恩雷を「雷鳴の回数を数える作法」とするものと、「雷の方角を獣の足跡に置換して読む方法」とするものがある。両者は対立概念ではなく、実際には同じ帳票を異なる読み方で運用していたとされる。
名称の由来[編集]
名称は、獣士が家畜、山林、稲作の三者をまたぐ巡回職であったことに由来するという。恩雷の「恩」は、雷が畑に雨をもたらす一方で火災も招くため、その両義性を表す行政語として採用されたとする説明が残る。
成立史[編集]
獣士恩雷の起源は、平野での落雷記録の断絶にあるとされる。の夏、局地的な雹害が三日連続で発生し、馬鈴しょの収量が前年比で38%減少したため、渡瀬は市場会計簿の余白に「一鳴二静」「南三北一」といった記号を書き込んだ。これが後年、恩雷符と呼ばれる基本単位になったという[4]。
には、渡瀬と在日英人測量技師のが、旭川からへ向かう巡回路で共同調査を行い、雷鳴を家畜の歩幅換算で記録する方式を導入した。ハルバートンは英語の報告書において、これを「a thunder etiquette rather than a meteorological method」と評しており、この妙な表現が英米の民俗学者の間で長く引用された[5]。
制度としてはに農商務省の通達「臨時雷候記録心得」に吸収され、各地のとが兼務で運用した。だが、実務では雷そのものより、雷を口実に集落会合を早く終えるための便宜として使われる例が多かったとされ、制度の純粋性は初期から薄れていた。
制度の仕組み[編集]
獣士恩雷の中心は「三符九節」と呼ばれる記録法である。三符とは、鳴動、湿気、家畜の反応を三つの記号に置き換える方式であり、九節とは雷鳴後の九時間を三等分して予報、避難、鎮静の判断を行う区分である。現存する帳面では、墨の濃淡によって危険度を示したものもあり、赤茶けた煤の痕跡が残る紙片がの郷土資料館に9点保存されている[6]。
また、獣士は単に観測者ではなく、村ごとの「雷の貸し借り」を調整する役目を負った。たとえば隣村で雷が鳴った場合、その余韻をこちらの畑の守りに転用するため、木札を裏返して一定の文句を唱えるとされた。現代の研究者はこれを象徴行為とみなすが、の『雷候観測協会月報』には、実際に「鶏が静かになるまで待て」と書かれており、運用はかなり実務的であったらしい。
普及と社会的影響[編集]
大正期に入ると、獣士恩雷は東北地方の炭鉱地帯や新潟県の低湿地農村にも伝播した。伝播の要因は、落雷の予測というより、雷雨の日に労働を中止する合図として便利だったからである。炭鉱では「恩雷二刻前退避」という独自ルールが生まれ、月間事故率が一時的に17%低下したとされるが、これは作業員の早退が増えた結果だとの反論もある[7]。
一方で、文部省が学校教育に導入しようとした際には、「児童が雷を恩人扱いするのは不適切」として一部で問題視された。これに対し、当時の教育学者は「畏敬の念は防災の第一歩である」と擁護し、のちに小学校用副読本『おそろしい空とやさしい雷』を執筆した。副読本は配布後わずか8か月で回収されたが、回収率は93.4%と高く、逆に影響の大きさを示したとされる。
批判と論争[編集]
獣士恩雷には、創始者の比定をめぐる長い論争がある。帯広説のほかに、青森県の古老が考案したという説、長野県の山岳信仰から派生したという説、さらにロシア帝国の国境調査に由来するという説まである。ただし、現存資料の筆致や用紙規格がの備品と一致するため、現在では帯広中心説がやや優勢である。
また、制度の運用には差別的な側面があったとの指摘もある。獣士に指名された者は基本的に農会か巡査の推薦制であり、女性や移住民が排除されていた地域が多い。もっとも、のでは、漁師の妻であったが独自に「港恩雷」と呼ばれる海霧判定法を編み出し、これが後に沿岸部の補助規格として採用されたという記録が残る。なお、この採用の経緯は一次史料が少なく、要出典とされることが多い。
衰退と再評価[編集]
獣士恩雷は、昭和初期に電信による気象通報が普及すると急速に衰退した。とくにの制度改正で、雷鳴記録は気象台へ一括移管され、獣士の身分証は「雑役証票」に格下げされた。この際、記録用の木札が学童の工作材料として払い下げられたため、現存数が少ない。
しかし以降、地域史研究と民俗学の再評価によって、獣士恩雷は「生活に根ざした災害対応の知恵」として見直された。の企画展では、来場者が専用の木札に自分の地域の雷の記憶を書く参加型展示が行われ、3週間で1万2,480枚の札が集まった。もっとも、札の約6割が「実家の猫が怯えた」という感想であり、研究者はこれを新たな民俗資料として扱っている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡瀬寛次郎『獣士恩雷考』帯広郷土研究会, 1911年.
- ^ Amy L. Halberton, "Thunder Etiquette in Hokkaido Villages," Journal of Imperial Field Notes, Vol. 4, No. 2, 1903, pp. 41-68.
- ^ 三好澄江『おそろしい空とやさしい雷』文教書院, 1931年.
- ^ 北海道庁編『臨時雷候記録心得』官報附録, 1908年.
- ^ 小田ミネ『港恩雷覚え書』釧路沿岸婦人会出版部, 1916年.
- ^ 近藤誠一『日本民俗気象学史』岩波研究叢書, 1978年.
- ^ Harold P. Wincher, The Beast-Steward Thunder Registers, Cambridge Antiquarian Press, 1964, pp. 112-139.
- ^ 高橋霧人『雷と村落自治の近代化』地方史通信社, 1998年.
- ^ M. S. Arkwright, "On Onrai Tokens and Their Rural Applications," Transactions of the Society for Weather Lore, Vol. 12, No. 1, 1928, pp. 7-24.
- ^ 『北海道気象民俗資料集成 第3巻 獣士恩雷篇』札幌資料出版, 2007年.
外部リンク
- 雷候観測協会デジタルアーカイブ
- 帯広地方郷土史研究ネット
- 北海道民俗気象学会
- 獣士恩雷資料館
- 日本災害符牒史研究所