第1回ちんぽスペック大会
| 正式名称 | 第1回ちんぽスペック大会 |
|---|---|
| 別名 | 第一回陰茎規格審査会 |
| 開催日 | 1931年9月12日 |
| 開催地 | 東京市下谷区上野公園内臨時木造演芸館 |
| 主催 | 日本人体規格研究協会 |
| 参加者数 | 47名 |
| 審査項目 | 寸法、硬度、静止安定性、鑑賞余韻 |
| 優勝者 | 藤原源三郎 |
| 次回開催 | 第2回大会(1933年) |
第1回ちんぽスペック大会は、日本において男性器の形状・サイズ・保持姿勢・審美性を総合評価する民間競技会である。元来は大正末期の東京で、工業製品の「規格適合」を人間観察に転用したことに由来するとされる[1]。
概要[編集]
第1回ちんぽスペック大会は、昭和初期の都市文化の中で一種の風刺的催しとして成立したとされる。主催母体であるは、もともとの啓発活動を行う準公的団体であったが、1930年代前半に入ると、人体を「規格の集合」とみなす独自の思想を掲げるようになった。
大会は東京市の見世物小屋文化と、当時流入していた欧米の、さらに寄席で流行した低俗な寸評芸が混ざって成立したといわれる。なお、記録上は「下品な笑いを交えつつも、統計的厳密さを失わなかった催し」と説明されているが、この記述には主催者側の自己評価が強く反映されているとの指摘がある[2]。
成立の背景[編集]
起源については諸説あるが、もっとも有力なのは、にの貸会議室で行われた「人体部位の規格化に関する座談会」である。この座談会で、ある技師が「鋳物の検査では寸法差0.3ミリを問題にするのに、人間については曖昧なままでよいのか」と発言し、会場が妙な熱気に包まれたことが発端とされる。
その後、協会の幹事であった渡辺精一郎が、会員名簿の余白に「スペック大会」の語を書き込み、これが内部文書を経て半ば公然化した。渡辺は後年の回想録で、最初は冗談だったが、参加希望者が想定の3倍に達したため中止できなくなったと述べている。ただし、この回想録は本人死後に編集されており、文体の一部が妙に近代的であるため、真正性には疑義がある[3]。
大会の運営[編集]
大会は上野公園の北側に設けられた臨時木造演芸館で行われた。会場には赤茶色の幕が張られ、入口ではの名を借りた検温係が、実際には出場者の緊張度を見極めるための雑談を行っていた。
審査は「静止時の外観」「保持角度」「周囲観客の沈黙率」の三本柱で行われ、各項目は10点満点、合計30点で評価された。ところが、観客の笑い声が大きいほど点数が上がるという謎の加算方式が途中で導入され、最終的に技術評価と興行評価がほぼ同義になったとされる。現存する採点表には、審査員が「異様に均整が取れているが、思想性に欠ける」と書き残しており、後世の研究者を困惑させている[4]。
競技方式[編集]
予選[編集]
予選では、出場者47名が東京都内の写真館で撮影された半身像をもとに一次審査を受けた。写真はすべてで保存され、なぜか胸元から下を写す角度が統一されていたため、後年の研究では「明治の証明写真技術が到達した奇跡の一点」と呼ばれている。
本選[編集]
本選では、木製の定規ではなく、協会独自の「柔尺」が使用された。柔尺は竹製で、先端に小さな鉛玉が仕込まれており、わずかな反りまで読めるとされたが、実際には審査員の手の震えを増幅させる効果の方が大きかったという。これにより、優勝者の得点は毎回ほぼ同じにならず、記録係を泣かせた。
特別審査[編集]
特別審査では、医師と書道家が同席し、筆圧の強さと姿勢の品位を同時に判定した。この奇妙な混成は、当時の「身体は文字である」という前衛思想の影響とされるが、単に審査員の人手不足だった可能性もある。
参加者と優勝者[編集]
参加者は主に東京、横浜、名古屋の職人、俳優、学生、そして一部の軍需工場技師から成っていた。職業別では機械工が最も多く、次いで書生が続いたとされる。なお、参加申込書には年齢欄のほか「自信の源泉」という記述欄があり、最も多かった回答は「祖父からの遺伝」だったという。
優勝したは、品川の鋲打ち工場に勤務する29歳の男性で、審査員から「無駄がなく、それでいて威厳がある」と評された。藤原は副賞として銀杯、布団一式、そして協会が独自に発行した『規格身体人名録』の掲載権を得た。彼は受賞後に「これでようやく母に顔向けできる」と述べたとされるが、同日の夕刊では別の人物が同じ発言をしており、発言者の同定にはなお議論がある[5]。
社会的影響[編集]
大会は一部の新聞で好奇の対象として報じられた一方、人体の見方を数値化する試みとして、意外にも学校衛生や制服設計に波及したとされる。特に文部省系の外郭団体が、体格検査の際に「過度に主観的な恥部判断を排する」ためのチェックリストを作成したという記録が残る。
また、大阪の繊維業界では、布地の伸縮試験の広告に「大会準拠」という語が使われ、意味の定義が曖昧なまま流通した。結果として「スペック」という語が、工業用語から半ば俗語として一般化する契機になったともいわれる。ただし、この語の普及は戦後の電機カタログ文化によるところが大きいという反論もある[6]。
批判と論争[編集]
当初から、医師会と宗教団体の一部は「人体の尊厳を損なう」として大会に反対した。とりわけ築地のある医師は、公開書簡で「測定器の正確さより、測定される側の人格を測るべきである」と述べ、翌週の新聞でややもっともらしく引用された。
一方で、協会内部でも「審査項目に芸術性を入れるべきか」「観客投票を導入すべきか」をめぐり激しい論争があった。第1回大会の時点ではまだ半ば実験段階であったため、審査基準が途中で三度変更されている。これにより、優勝者の得点表と観客配布のパンフレットで順位が一致しないという、いかにも初回大会らしい混乱が生じた。
その後の展開[編集]
第1回大会の成功を受け、協会はに第2回大会を計画したが、会場の確保難と警察の風紀指導により、名称を「人体スペック研究発表会」に改称せざるを得なかった。以後、公開競技としての性格は薄れ、各地の寄席や青年団の余興に吸収されていったとされる。
それでも、戦後には神保町の古書店で発見された薄い冊子『ちんぽスペック大会記録集』が研究者の関心を呼び、1990年代には男性身体表象史の周縁資料として再評価された。なお、同冊子の奥付は活版印刷にしてはインクの滲みが均一すぎるため、後刷りの可能性が指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『人体規格論序説』日本標準出版, 1932.
- ^ 佐々木寛次「臨時演芸館における審査実務」『風俗測定学雑誌』Vol. 4, No. 2, 1934, pp. 11-29.
- ^ 藤原源三郎『銀杯受領記』下谷文化社, 1935.
- ^ Margaret A. Thornton, "Specimen Bodies and Civic Fairs," Journal of Urban Anthropology, Vol. 18, No. 1, 1979, pp. 44-67.
- ^ 田所信彦「昭和初期における身体の規格化と余興」『日本風俗史研究』第12巻第3号, 1988, pp. 101-118.
- ^ Kenji Mori, "Measurement, Shame, and the Public Stage," The East Asian Review of Performance Studies, Vol. 7, No. 4, 2001, pp. 201-226.
- ^ 日本人体規格研究協会編『第1回ちんぽスペック大会記録集』協会資料室, 1931.
- ^ 長谷川翠「柔尺の発明とその誤用」『器具史叢書』第3巻第1号, 1996, pp. 5-19.
- ^ Robert C. Ellingham, "The Civic Humor of Body Standardization," Proceedings of the Institute for Speculative History, Vol. 2, No. 3, 2014, pp. 88-109.
- ^ 『ちんぽスペック大会記念写真帖』東京下谷印刷, 1931.
外部リンク
- 日本人体規格研究協会アーカイブ
- 下谷演芸史デジタル資料室
- 風俗測定学会誌オンライン
- 規格身体人名録データベース
- 昭和初期娯楽文化センター