論破士
| 名称 | 論破士 |
|---|---|
| 読み | ろんぱし |
| 英名 | Ronpashi |
| 初出 | 1938年ごろ |
| 起源地 | 東京都神田区周辺 |
| 主な活動 | 討論、反証整理、公開質疑 |
| 資格制度 | 民間認定制(後に半官半民化) |
| 関連団体 | 日本論法協会 |
論破士(ろんぱし、英: Ronpashi)は、議論において相手の主張を体系的に崩すことを職能とする日本の準専門職である。一般にはや、大学の討論番組制作現場で活動したとされる[1]。
概要[編集]
論破士は、相手の発言の前提、定義、時系列、比較対象を順番に崩し、最終的に議論を「成立していない状態」に戻すことを仕事とする者を指すとされる。名称はと武道の徒弟制度を組み合わせた昭和前期の俗称に由来するとされるが、実際には神田の貸会議室で行われた口論仲裁の現場語が独り歩きしたものと推定されている[2]。
一般に新聞社や大学の公開討論会、さらにはの住民説明会まで活動範囲は広い。もっとも、現代では「何でも即答で勝つ人」を指して誤用されることも多く、初期の論破士が重視したのは勝利ではなく、議論の前提条件を紙に書き出す作業であったという。なお、1949年の設立時には、会員87名のうち実戦経験者は14名 בלבדで、残りは文筆家と元新聞校閲者であった[要出典]。
歴史[編集]
神田口論院時代[編集]
論破士の前身は、1930年代後半の東京都で開かれていた「神田口論院」と呼ばれる私設講習会に求められる。ここでは、酒場で起きた口論を3分以内に終結させる訓練が行われ、受講者は「主張」「根拠」「逸脱」の三欄を埋める帳面を常に携行したという。創設者の渡辺精一郎は、元は弁護士秘書であり、のちに相手の論点を図解する技法「矢印返し」を考案したとされる。
1941年には、会場が本郷の古書店二階に移され、討論の相手を一度だけ笑わせると減点される独特の規則が導入された。これは感情的優位が議論を曖昧にするという理由によるもので、のちの論破士倫理綱領の原型となった。もっとも、当時の資料には「一度笑わせた者が最も人気を得た」との記録もあり、実務と理念の乖離が早くから指摘されている[3]。
戦後の制度化[編集]
の以後、論破士は演説技法の一種として文部省の周辺で再評価された。特に、の臨時討論会で行われた「3分間再定義法」が新聞各紙に取り上げられ、これを契機にが民間資格「準論破士」を設けたとされる。受験者は年間平均412人で、合格率は初年度11.8%に過ぎなかった。
この時期の特徴は、論破そのものよりも「議題の棚卸し」を重視したことである。例えば、相手が「そもそも」と言い始めた瞬間に、論破士は議論を五項目に分解し、ホワイトボードにと書き込む慣行が定着した。なお、1958年にはNHKのラジオ討論番組で、論破士が沈黙を保ったまま勝利した回があり、これは「最短の論破」として伝説化している。
テレビ時代と大衆化[編集]
に入ると、のバラエティ番組が論破士を「即答が速い人」として消費し始め、業界の姿は大きく変質した。の『日曜論争劇場』では、港区のスタジオで収録中に論破士が持ち込んだ資料が厚さ7.4センチに達し、制作班がコピー機を2台増設したという。これにより、資料の束を開くだけで相手が退散する現象が「紙圧勝」と呼ばれた。
また、1980年代後半には、大学のサークル活動として「学生論破士連盟」が全国43校に広がった。彼らはゼミ発表の質疑応答に現れ、質問の前に「前提確認です」と言うだけで拍手を浴びた。もっとも、当時の記録には、討論後に誰も本論を覚えていなかったケースが18件あるとされ、関係者の間では「勝ったのに進まない」という批判もあった。
制度と養成[編集]
論破士の養成は、かつての「日本論法学院」で体系化されたとされる。入門課程では、受講者は一週間に最低24本の新聞投書欄を読み、相手の論旨を要約してから反論文を200字で作成する訓練を受けた。上級課程では、相手の発言に含まれる曖昧語を抽出する「曖昧語捕獲演習」があり、平均して1回の演習で17語が採取されたという。
認定制度には、筆記、口頭、実地の三試験があった。実地試験では、新宿駅前で通行人2名以上に話しかけず、なおかつ議論を成立させることが求められた。合格者には朱色の腕章と、反論メモを挟むための細い木箱が支給された。木箱の長さは規格上21.6センチと定められていたが、実際には各自が名刺や菓子折りを入れるため、やや大型化する傾向があった[要出典]。
文化的影響[編集]
論破士は、の社説文化と相性がよく、1960年代から1980年代にかけて「論破の切れ味」が知識人の一種の名刺として扱われた。特に朝日新聞系の論壇欄と系の公開討論欄では、論破士が投稿者同士の温度差を調整する役割を担ったとされる。
一方で、一般社会では「論破士に依頼すると会議が長引く」という逆説的な評判も定着した。これは、相手を論破するために前提整理が厳密すぎて、30分会議のうち23分が定義確認に費やされたことに起因する。1996年のの企業研修では、受講者62人中49人が「議論に勝つより先に昼休みが来た」と回答し、以後、企業向け論破士は「30秒以内に要旨をまとめる」簡略版へと転じた。
批判と論争[編集]
論破士に対する批判の第一は、しばしば目的と手段が逆転する点にある。すなわち、真理の探索よりも相手の失言の捕捉が優先されやすく、結果として議論が「勝敗のゲーム」に変質しやすいのである。これは戦後の公開討論文化を活性化させた一方、家庭内や学校での会話まで形式化したとの指摘がある。
また、1973年の大阪での市民集会では、論破士が質問者の発言を12回にわたって再定義した結果、会場の照明が点検時間に入ってしまい、議論が物理的に中断された事件があった。この出来事は「照明に論破された事件」として知られ、以後の倫理規程に「相手の理解可能性を著しく損なう表現を避ける」という一文が加えられた。もっとも、当該条文は1992年の改定で「必要に応じて厳密化してよい」とも追記され、解釈をめぐる争いは現在も続いている。
著名な論破士[編集]
論破士の名がもっとも広く知られるようになったのは、、、の三名による「新宿三角論破」である。佐藤は要約の速さで知られ、三輪は質問を返す角度の鋭さで評価され、黒田は沈黙の後に一言で場を終わらせる技法を得意とした。
1984年の名古屋公開討論会では、三輪が相手の主張を8語で再構成し、会場の大半がそれを理解しないまま拍手したという。また、黒田は番組収録中に「その前提は、誰がいつ決めたのですか」とだけ述べ、相手側の資料が31ページから92ページへ増補されたと伝えられる。なお、佐藤は晩年に「勝つより、最後に議題が残る方が重要だ」と語ったとされ、これは論破士倫理の標語として一部で引用されている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『神田口論院記録 第一輯』日本論法協会出版部, 1942年.
- ^ 三輪美智子『反論の角度: 戦後討論文化史』青灯社, 1961年.
- ^ Harold T. Bennett, "Procedural Refutation in Urban Japan", Journal of Comparative Rhetoric, Vol. 8, No. 3, 1974, pp. 112-139.
- ^ 黒田遼一『沈黙による勝利』新潮討論文庫, 1986年.
- ^ 日本論法協会編『準論破士認定要項』東京教育出版, 1953年.
- ^ 佐藤圭吾『議題を残す技術』岩波口語選書, 1991年.
- ^ Emilia R. Hart, "Argument Clinics and the Rise of Ronpashi", The East Asian Review of Oratory, Vol. 12, No. 1, 1989, pp. 44-68.
- ^ 『論破士倫理綱領 解説と実施例』日本論法協会中央委員会, 1976年.
- ^ 小林一歩『照明に論破された日: 市民集会史』河出市民叢書, 2004年.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Paper Victory Phenomenon", Proceedings of the Metropolitan Debate Studies, Vol. 3, No. 2, 1998, pp. 7-26.
- ^ 田辺孝太郎『曖昧語捕獲演習法』文光堂, 1970年.
外部リンク
- 日本論法協会デジタルアーカイブ
- 神田口論院資料室
- 討論文化研究会
- 公開質疑年表
- 論破士倫理委員会速報