逢坂 茜
| 氏名 | 逢坂 茜 |
|---|---|
| ふりがな | おうさか あかね |
| 生年月日 | 1908年4月18日 |
| 出生地 | 大阪府大阪市南区難波新地 |
| 没年月日 | 1974年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 口承史家、舞台監督、編集者 |
| 活動期間 | 1931年 - 1971年 |
| 主な業績 | 赤色記録帳の編纂、逢坂式採話法の考案 |
| 受賞歴 | 関西文化功労章(1966年) |
逢坂 茜(おうさか あかね、 - 1974年)は、日本の民間口承史家、舞台監督、ならびに関西地方の祭礼記録整備に関わった人物である。戦前の大阪市における「赤色記録運動」の中心人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
逢坂 茜は、大阪府大阪市に生まれた日本の民間口承史家である。戦前から戦後にかけて、口伝・舞台・祭礼を一体化して記録する独自の方法論を打ち立てたことで知られる[1]。
彼女はの舞台運営に関わったのち、京都市の民俗研究者らと交流し、各地の祭礼口上を採録した。これらの活動は「赤色記録運動」と総称され、後年の地域アーカイブ整備に影響を与えたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
逢坂は、大阪の商家に生まれる。幼少期から道頓堀の芝居小屋に出入りし、切符売りの口上や舞台転換の合図を暗記していたという[3]。家業は乾物問屋であったが、帳簿の余白に芝居のせりふを書き写していたため、祖父から「勘定より言葉に向く」と評された。
なお、同家には「帳面を濡らすと雨が止む」という奇妙な俗信があり、茜はこれを後年の採録技術の原型として位置づけたとされる。
青年期[編集]
、を中退したのち、系の舞台補助員として働き始めた。ここで舞台監督のに師事し、照明の切り替えと観客の笑いが同期する瞬間を「場の赤化」と呼んだ[4]。
には京都市で開かれた民俗講演会に匿名投書し、「村の語りは紙に写すと死ぬが、舞台に上げると増殖する」と主張した。この投書が、のちに関西学院大学の若手研究者の目に留まり、彼女の名が学界周辺で知られる契機になったとされる。
活動期[編集]
1934年、逢坂はに「赤色記録室」を設け、祭礼の口上、座敷唄、商家の掛け声を一括採集する事業を開始した。記録には映画フィルム、速記、香り付き紙片が併用され、特に香り付き紙片は「記憶の再演を容易にする」として注目された[5]。
1941年にはの外郭団体と協力し、戦時下に散逸しつつあった地域芸能の記録を整理した。ただし、一部のメモには「空襲警報より先に鳴る太鼓」の記述があり、当時の防空記録との整合性をめぐって要出典とされることが多い[6]。
戦後はに「逢坂式採話法」を公表し、聞き取り対象者に対して三度同じ問いを、異なる抑揚で尋ねることで語りの変形を比較する手法を提唱した。これにより、単なる事実記録ではなく、記憶の揺れそのものを資料化する学派が形成された。
人物[編集]
逢坂は豪放で即興的な人物と評される一方、記録の細部には異様な執着を示した。たとえば同じ祭礼を三夜続けて採録し、1日目は太鼓の回数、2日目は観客の咳、3日目は屋台の軋み音だけを比較したという。
性格的には寡黙であったが、筆記具の配置にはうるさく、机上の鉛筆が以上傾いていると採録を中断した。門下生の証言によれば、彼女は「記録は真実を残すのではない。真実が通る道幅を決める」と述べたとされる。
逸話として有名なのは、1958年の調査で、船渡御の囃子が予定より早く入ったことに激怒したものの、直後に「このずれが今年の本体である」と言い出し、そのまま論文題名に採用した件である。
業績・作品[編集]
主要著作[編集]
代表作は『赤色記録帳』全24巻である。各巻は祭礼口上、商家の掛け声、舞台袖の合図、非公式な雑談を同列に収録したもので、の特殊資料室に所蔵された[8]。
また、『採話の温度』では、話者の記憶が付近で最も流暢になると主張し、冷房の効きすぎた会議室では採録率が低下すると報告した。数字の妥当性には疑義があるが、後世の調査票に妙な影響を与えた。
方法論[編集]
逢坂式採話法は、聞き取りの前に対象者へ赤い紙を一枚渡し、話の途中で裏返させることで記憶の分岐点を可視化する技法である。これにより、語りが「事実」「脚色」「沈黙」の3層に分かれるとされた[9]。
彼女はさらに、録音機の前でわざと茶をすする音を入れることで、話者が自分の声を他人事として聴く効果が生じるとした。後年、の一部研究者がこれを引用したが、正式採用には至らなかった。
舞台との関係[編集]
舞台監督としては、での演出補助が有名である。幕が上がる三秒前にあえて袖明かりを少し落とし、観客の視線を役者ではなく空気に向けさせる演出を好んだ[10]。
その結果、役者よりも小道具の壺や提灯が記憶に残る公演が多かったとされる。逢坂本人は「人は人を忘れるが、提灯の揺れは忘れにくい」と述べたと伝えられている。
後世の評価[編集]
の関西文化功労章受章以後、逢坂はとの境界をまたぐ稀有な実務家として再評価された。特に以降、地域史料の保存が行政課題となると、彼女の赤色記録帳は「先駆的アーカイブ実践」として紹介されることが多くなった。
一方で、聞き取りの演出性が強すぎるとして批判もあった。とりわけ、採録時に話者へ赤い紙を持たせる手法は誘導的であるとの指摘があり、大阪大学の一部研究会では「記録と演出の境界を意図的に曖昧にした」と論争になった。
それでも、彼女が残した「記憶を固定せず、動いたまま保存する」という発想は、デジタルアーカイブ以前の日本における独自の到達点として評価されている。
系譜・家族[編集]
逢坂家は江戸時代末期から大阪で乾物と帳簿を扱う家系であったとされる。父・逢坂俊右衛門は海苔問屋の番頭、母・逢坂よしは芝居好きで、子どもに歌舞伎の筋立てを寝物語として語ったという[11]。
夫はので、に結婚した。子はなく、代わりに門下生を事実上の養子のように扱ったと伝えられる。なお、逢坂は晩年まで「血縁よりも採録縁のほうが長持ちする」と述べていたが、これは家族会議の記録には残っていない。
系譜上は明治期の商家に連なるとされるが、大阪府の一部旧家名簿では該当記載が見つからず、後年の自伝的誇張ではないかという説もある。
脚注[編集]
[1] 『関西口承史研究』第12巻第3号、pp. 41-58。
[2] 田辺志郎『赤色記録運動の成立』関西文化出版、1968年。
[3] 『大阪芝居小屋聞書』大阪民俗資料社、1959年。
[4] Margaret L. Sutherland, “Stage and Echo in Prewar Osaka,” Journal of Performative Archives, Vol. 4, No. 2, pp. 201-219.
[5] 『香り付き資料の技法』国立記録研究会紀要、第8巻第1号、pp. 9-27。
[6] 山口春雄『戦時下外郭団体史料目録』大阪市政研究所、1977年。
[7] 『寺院口承と咳払いの採譜』奈良文化叢書、第3号、pp. 112-130。
[8] 大阪市立中央図書館特殊資料室編『赤色記録帳目録』、1981年。
[9] 逢坂茜『採話の温度』私家版、1954年。
[10] K. H. Yamamoto, “Backstage Dimness and Audience Memory,” Theatre Notes of Western Japan, Vol. 11, pp. 77-94。
[11] 『南区商家名簿断片集』大阪郷土史料協会、1932年。
脚注
- ^ 田辺志郎『赤色記録運動の成立』関西文化出版, 1968年.
- ^ 『関西口承史研究』第12巻第3号, pp. 41-58.
- ^ 大阪市立中央図書館特殊資料室編『赤色記録帳目録』, 1981年.
- ^ Margaret L. Sutherland, “Stage and Echo in Prewar Osaka,” Journal of Performative Archives, Vol. 4, No. 2, pp. 201-219.
- ^ 山口春雄『戦時下外郭団体史料目録』大阪市政研究所, 1977年.
- ^ 逢坂茜『採話の温度』私家版, 1954年.
- ^ K. H. Yamamoto, “Backstage Dimness and Audience Memory,” Theatre Notes of Western Japan, Vol. 11, pp. 77-94.
- ^ 『寺院口承と咳払いの採譜』奈良文化叢書, 第3号, pp. 112-130.
- ^ 『大阪芝居小屋聞書』大阪民俗資料社, 1959年.
- ^ Eleanor P. Wainwright, “Red Paper as Oral-Text Device,” Comparative Folklore Quarterly, Vol. 9, No. 1, pp. 33-49.
外部リンク
- 関西口承史アーカイブ
- 大阪舞台記録研究所
- 赤色記録帳デジタル索引
- 近代採話法資料館
- 民間口承史年報