Otaraco
| 分類 | 民間療法、演芸、港湾労働文化 |
|---|---|
| 成立 | 1948年頃 |
| 発祥地 | 北海道小樽市周辺 |
| 主な担い手 | 倉庫作業者、興行師、耳鼻科医の一部 |
| 使用器具 | 樽、真鍮盆、帆布、鉱灯 |
| 伝播地域 | 北海道、関東、北米西海岸の一部 |
| 関連行政 | 北海道港湾文化保存会 |
| 代表的記録 | 1957年『Otaraco試行報告書』 |
Otaraco(おたらこ)は、北海道の港町で発生したとされる、音響共鳴を利用した兼の総称である。半ばに周辺の倉庫街で成立したとされ、のちに札幌市や東京都へ広まった[1]。
概要[編集]
Otaracoは、樽や金属板を用いて特定の周波数を作り出し、倦怠感や船酔いを和らげるとされた港湾由来の実践である。もともとは小樽市の荷役現場で、長時間労働に従事する者が即席の打楽器を叩いて拍子を合わせたことに起源を持つとされる。
この実践は次第に、単なる気晴らしではなく、呼吸法・合唱・即興寸劇を組み合わせた半儀礼的なものへ変化した。なお、1950年代後半には北海道大学の一部研究者が「労働者の自己調律現象」として関心を示したとされるが、当時の資料は断片的であり、要出典の多い分野でもある[2]。
起源[編集]
倉庫街の即興遊戯[編集]
起源については、1948年夏、第七码庫の雨漏り修繕中に、真鍮盆が偶然鳴ったことが契機であるという説が有力である。作業班の班長であった渡辺留次郎は、盆の反響が耳の奥の痛みを軽減したと語ったとされ、その夜に同僚11人で再現実験が行われたという[3]。
このとき用いられた樽は、もとはニシン漁で使われた塩蔵用のものとされ、内部に帆布を張ることで低音が増幅されたという。もっとも、港湾関係者の回想録では「単にうるさかっただけ」とする記述もあり、学術的評価は割れている。
医療との接続[編集]
1952年には出身の耳鼻科医、三浦晴彦が港湾診療所の往診記録にOtaracoを記し、軽度の耳鳴り患者3名に試験的に用いたとされる。三浦は、一定のリズムが自律神経の反応を整える可能性を示唆したが、後年の講演では「患者よりも助手のほうが楽しんでいた」と述べたと伝わる。
この医療接続により、Otaracoは単なる港の余興から、半ば衛生思想を帯びた行為へと変質した。結果として、厚生省の地方衛生担当者が視察に訪れた記録が残るが、報告書の末尾には「再現性は高いが、効能は不明」とだけ記されている。
形式と作法[編集]
Otaracoの基本形式は、3分間の導入打音、7分間の「返し唱え」、2分間の無音姿勢から構成されるとされる。参加者は樽を囲み、右回りに2周したのち、真鍮盆を腹部の高さで斜めに持ち、合図に合わせて4拍子で打つ。
さらに、各回の終盤には「港の潮目」を意味する特定の掛け声が挟まれ、これが地域ごとに異なった。小樽式では「オタ、ラ、コ」と3拍に分解される一方、横浜市で流行した改変型では「オト・ラ・コー」と伸ばされ、やや舞台芸術寄りになったという。
なお、1959年に作成されたとされる標準手引きには、盆の角度を「27度から31度の間」と指定する記述があり、妙に細かいことで知られている。これは当時の鉄道ダイヤ編成表を転用した名残ではないかとする説もある[4]。
拡大と流行[編集]
北海道内での普及[編集]
1950年代後半、Otaracoはの倉庫組合やの製鉄所寄宿舎にも伝播し、1958年時点で北海道内に少なくとも47の「実践班」が存在したとされる。とくに冬季は、室内で手軽に行える慰藉法として重宝され、職員食堂の閉店後に秘密裏に演じられたという。
ただし、労務管理側からは「作業前に興奮する」「鍋を叩くため食器が足りなくなる」といった苦情も上がり、一部では使用器具の貸与制限が行われた。
社会的影響[編集]
Otaracoは、戦後の港湾都市における労働者の自助文化を象徴するものとして語られることが多い。とりわけ、集団の拍子に合わせて呼吸を整える点は、簡易なストレス対策として注目され、1960年代には一部ののレクリエーション行事にも採用された。
その一方で、Otaracoをめぐる熱狂は、健康法としての誇張を招いた。1964年には「一晩で肩こりが消える」と宣伝した民間療法商法が発覚し、が小さく報じている。これを受けて、港湾文化保存会は「Otaracoは治癒を約束するものではない」とする声明を出したが、声明文自体があまりに詩的で、かえって信者を増やしたとされる。
批判と論争[編集]
批判の中心は、Otaracoの効能を示すデータの乏しさである。1950年代の試験記録は、参加者数が12名から84名まで資料ごとに揺れ、しかも同じ報告書内で「改善」と「変化なし」が混在しているため、現代の研究者からは統計処理の杜撰さが指摘されている。
また、1967年の札幌市文化祭で披露された際、観客の一部が演奏に合わせて本当に眠り込んだことから、催眠術との混同が生じた。これに対し、Otaraco保存連盟は「眠気は港の潮風による」と説明したが、舞台袖に大型扇風機が3台置かれていたことが後に判明している。
さらに、1970年代にはアメリカ合衆国西海岸の日系コミュニティで流行した際、現地の音楽家がジャズ理論で再解釈し、原型から大きく逸脱した。日本側からは「Otaracoの名を借りた別芸能」との批判が出たが、これに対し現地側は「そもそも最初から港が違う」と応じたと伝わる。
その後の展開[編集]
1980年代以降、Otaracoは実用的な民間療法としてよりも、港町文化を象徴するパフォーマンスとして保存されるようになった。小樽市内の一部学校では郷土学習の題材に採用され、児童がミニ樽を叩く授業が行われたこともある。
2004年には、旧倉庫を改装した展示施設で「Otaraco復元公演」が開催され、来場者数は3日間で4,280人に達したとされる。もっとも、終演後に配布されたアンケートの自由記述欄には「楽しそうだが家でやると怒られる」「なぜか冷蔵庫の音を思い出した」といった感想が並び、今日では都市型ノスタルジーの一種として理解されている。
現在では、を中心に年1回の公開実演が行われているが、参加規則は会場ごとに異なり、盆を持参しなければ入場できない会もある。こうした厳格さと無意味さの両立が、Otaracoを長く生き残らせている要因とみられる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺留次郎『第七码庫における反響と慰藉』北海道港湾文化研究所, 1954年.
- ^ 三浦晴彦「港湾作業者の耳鳴りと拍節刺激」『北日本耳鼻咽喉科雑誌』Vol. 12, No. 3, pp. 114-129, 1958年.
- ^ 黒田一真『浅草小劇場と港の音響儀礼』新潮社, 1963年.
- ^ 北海道港湾文化保存会編『Otaraco試行報告書』札幌資料出版, 1957年.
- ^ Harold P. Wexler,
- ^ Rhythmic Dockside Practices in Postwar Japan
- ^ Pacific Studies Quarterly
- ^ Vol. 8, No. 2, pp. 41-66, 1969.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Acoustic Relief Movements in Northern Port Cities', Journal of Maritime Folklore, Vol. 5, No. 1, pp. 9-28, 1973.
- ^ 島田ミツ子『港の盆と腹式呼吸』北海道教育社, 1971年.
- ^ Peter J. Kline, 'When the Drum Became a Basin: Otaraco and Social Synchrony', Urban Anthropology Review, Vol. 14, No. 4, pp. 201-219, 1981.
- ^ 佐々木俊夫「Otaracoの標準化に関する覚え書き」『民俗技術研究』第4巻第2号, pp. 77-90, 1960年.
- ^ 鈴木澄江『冷蔵庫の音と港町の記憶』講談社, 2006年.
外部リンク
- 北海道港湾文化保存会
- 小樽倉庫街アーカイブ
- 港の音響民俗館
- Otaraco復元公演実行委員会
- 札幌地方資料デジタル目録