白モグラ
| 氏名 | 白野 重蔵 |
|---|---|
| ふりがな | しろの じゅうぞう |
| 生年月日 | 1879年3月14日 |
| 出生地 | 滋賀県蒲生郡日野町 |
| 没年月日 | 1944年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 博物誌家、地中生物観測家、技術顧問 |
| 活動期間 | 1901年 - 1942年 |
| 主な業績 | 地下反響図法の確立、白土坑道網の標準化 |
| 受賞歴 | 帝国地理学会奨励賞、勧業局技術感謝状 |
白野 重蔵(しろの じゅうぞう、 - )は、日本の博物誌家、地中生物観測家、ならびに白土採掘権調停人である。地下反響図法の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
白野 重蔵は、明治末期から昭和前期にかけて活動した日本の博物誌家である。特にから岐阜県にかけての低丘陵地帯で観察された白色の地中小動物を「白モグラ」と命名したことで知られる[1]。
その業績は動物学、鉱山測量、地方行政の三領域にまたがっていたとされる。のちに京都帝国大学の外郭研究会や内務省の土壌調査班にも助言を行い、地下空洞の崩落予測に関する報告書を多数残した[2]。
なお、白モグラという語は、当初はの一部で用いられた俗称であったが、白野の著作により学術語として定着したとされる。ただし、当時の記録の一部には「実在性が確認できない」とする但し書きもあり、この点が後年の論争の火種となった[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
白野は、の紙問屋の家に生まれる。幼少期より水田の畦道に掘られた細い穴を観察する癖があり、8歳のころには自作の竹筒を用いて地中音の聞き分けを試みていたという[4]。
、家業の帳簿整理を手伝うかたわらの聴講生として算術と地質初歩を学んだとされる。ここで彼は「土は沈黙していない」と記したノートを残したが、現物は京都の古書店に一度出たのち行方不明である[5]。
青年期[編集]
、白野は大阪の測量会社に就職し、沿岸の堤防工事に従事した。そこで偶然、白い毛をもつ小型の穴掘り動物を目撃したと述べているが、同僚証言では「雨で煤が落ちただけではないか」とされている[6]。
その後、彼は奈良県の薬師寺周辺で土質と生物の相関を調べる独自の調査を開始し、には京都帝国大学の臨時助手・に師事した。藤原は地中振動の観測に熱心で、白野に対して「穴の形は生物の筆跡である」と教えたという。
活動期[編集]
、白野は岐阜県の白土採掘場で、坑道壁に残る細い爪痕と粉末の堆積を詳細に記録し、これを「白モグラ行動圏の輪郭」と呼んだ。この報告はの小会誌に掲載され、閲読者の間で賛否を呼んだ[7]。
には農商務省の委嘱で、全国17か所の白土鉱区を巡検し、地下空洞の平均湿度を62.4%、通気孔の直径を最大13.7センチとする統一記録法を提唱した。これにより坑内作業の事故率が年間で約18%減少したとされるが、母集団の取り方には異論がある[8]。
の関東大震災後には、東京府の被災地で地割れの分布と小動物の退避経路を比較し、崩落前に発せられる「甲高い擦過音」を聞き分ける訓練法を提案した。訓練会はとで合計11回行われ、受講者はのべ342人に達したという。
晩年と死去[編集]
後半、白野はに戻り、私設の「白土地中生態研究所」を設けて後進の指導にあたった。ここではの骨格標本とされた木彫模型が公開され、見学者が年間2,000人前後訪れたとされる[9]。
、白野はの仮寓で病没した。享年65。死因は脳溢血と伝えられるが、最晩年まで坑道の通気模型を回していたため、周囲では「空気の流れに負けた」と表現した者もいた。遺稿『地中に礼を尽くす』は未完のままに私家版として刊行された。
人物[編集]
白野は、几帳面である一方、極端な直観に依拠する人物であったとされる。調査旅行では必ず白手袋を着用し、地面に触れる前に「地下は表情を持つ」と独り言を述べたという[10]。
逸話として有名なのは、岐阜県の採掘坑で職工が「ただのネズミ穴です」と言った際、白野が三時間にわたり穴の曲率を計測し、最終的に「ネズミの社会にも白化個体は存在する」と結論した件である。この記録は後年のでも引用されたが、直後に「分類上の飛躍が大きい」と注記された[11]。
また、白野は酒席を嫌ったが、京都の研究者懇談会では必ず白味噌汁を二杯だけ飲んだ。本人はこれを「地中の静けさを戻す儀式」と呼んだとされる。
業績・作品[編集]
白野の主著には『』『『坑道と皮毛』』『地下反響図法概論』などがある。なかでも『白モグラ考』はの刊行以来、坑内生態学の基礎文献として扱われ、系の教育参考書にも一時期引例された[12]。
彼はまた、白モグラの生息痕を可視化するため、黒墨と煤を混ぜた「逆浸透拓本」を考案した。この方法では、湿った土壁に紙を押し当てると微細な孔道が浮き上がるとされたが、雨天時にはほぼ何も写らず、助手たちはしばしば困惑したという。
には、農商務省の補助金を受けて、白モグラの移動を想定した立体坑道模型を社屋地下で公開した。模型は長さ18.2メートル、分岐数47、回転式観察窓6基を備え、来場者の人気を集めたが、三日目に模型内部へ本物のモグラが侵入し、展示解説が一部差し替えられた[13]。
後世の評価[編集]
白野の評価は、史の文脈では異端的である一方、地方採掘行政の実務家からは高く評価されている。特に1940年代以降は、地下空洞の安全管理における先駆者として再評価が進み、の特別展では来場者数が初月で4万1,800人に達した[14]。
一方で、白モグラの実在性については今日でも決着していない。あるの再調査では、旧採掘跡47地点のうち「形跡あり」と判定されたのは9地点にとどまり、残りは単なる土壌崩落だった可能性が高いとされた[15]。しかし白野の支持者は、白モグラとは生物そのものではなく「人が地中を理解しようとする態度の象徴」であると主張している。
に入ると、京都大学の公開講座や地域博物館の展示で白野は「地中民俗学の祖」として紹介されることが増えた。もっとも、講演録の脚注には「当時の記述には過大解釈が含まれる」といった注意書きが頻繁に付されている。
系譜・家族[編集]
白野の父は白野傳三郎、母は白野よしと伝えられる。傳三郎は紙問屋の経営者であり、帳簿の余白に穴の深さを描く癖のある息子を「商売にはならぬが面白い」と評したという[16]。
妻はで、に婚姻した。清枝はの出身で、白野の調査旅行にたびたび同行し、坑道周辺で採取した植物標本の整理を担当した。二人の間には長男の重一、長女のとみがいたとされる。
重一は後に大阪府で測量技師となり、父の資料を整理してに『白野重蔵遺稿集』を刊行した。ただし、遺稿の三分の一は重一自身の書き込みであったとの指摘もある。
脚注[編集]
[1] 白野重蔵『白モグラ考』白土書房、1914年。
[2] 帝国地理学会編『地下反響図法報告集』第3巻第2号、1919年、pp. 41-67。
[3] 近藤雅彦「白モグラ伝承の成立」『地中文化研究』Vol. 8, No. 1, 1979, pp. 12-19。
[4] 白野清記『日野町聞書』日野郷土資料館写本、1892年。
[5] 藤原惟安「聴講生白野重蔵のメモ」『京都帝国大学雑誌』第21巻第4号、1908年、pp. 201-208。
[6] 大阪測量組合『淀川堤防工事日誌』明治34年版、pp. 88-91。
[7] 白野重蔵「白土坑内における白色小動物の痕跡」『帝国地理学会誌』第12巻第3号、1912年、pp. 114-130。
[8] 農商務省鉱務局『白土鉱区巡検総覧』1920年、pp. 9-55。
[9] 佐伯恒雄『地中生態研究所訪問記』関西探訪社、1938年。
[10] 水谷千代「白野重蔵先生の観察態度」『博物月報』Vol. 15, No. 7, 1941, pp. 4-9。
[11] 日本動物学会議事録『ネズミ白化個体に関する暫定報告』第2号、1930年、pp. 2-6。
[12] 山口栄一『近代日本坑道生物学史』勁草館、1964年、pp. 77-104。
[13] 大阪毎日新聞社『地下展示会記録』1926年、pp. 3-14。
[14] 滋賀県立琵琶湖博物館『白野重蔵と白モグラ展図録』1998年、pp. 5-23。
[15] 北村亮介「滋賀県旧採掘跡の再調査」『地質と民俗』第6巻第2号、1978年、pp. 61-79。
[16] 白野家文書保存会『白野傳三郎日記抄』私家版、1959年。
脚注
- ^ 白野重蔵『白モグラ考』白土書房, 1914.
- ^ 帝国地理学会編『地下反響図法報告集』第3巻第2号, 1919, pp. 41-67.
- ^ 藤原惟安「聴講生白野重蔵のメモ」『京都帝国大学雑誌』第21巻第4号, 1908, pp. 201-208.
- ^ 農商務省鉱務局『白土鉱区巡検総覧』, 1920, pp. 9-55.
- ^ 水谷千代「白野重蔵先生の観察態度」『博物月報』Vol. 15, No. 7, 1941, pp. 4-9.
- ^ 山口栄一『近代日本坑道生物学史』勁草館, 1964, pp. 77-104.
- ^ 北村亮介「滋賀県旧採掘跡の再調査」『地質と民俗』第6巻第2号, 1978, pp. 61-79.
- ^ 佐伯恒雄『地中生態研究所訪問記』関西探訪社, 1938.
- ^ 滋賀県立琵琶湖博物館『白野重蔵と白モグラ展図録』, 1998, pp. 5-23.
- ^ 近藤雅彦「白モグラ伝承の成立」『地中文化研究』Vol. 8, No. 1, 1979, pp. 12-19.
外部リンク
- 白土博物学アーカイブ
- 帝国地理学会デジタル資料室
- 滋賀県地中民俗研究会
- 白野重蔵記念館
- 地下反響図法保存会