クラット・ベシュナー
| 氏名 | クラット・ベシュナー |
|---|---|
| ふりがな | くらっと・べしゅなー |
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 出生地 | 長崎県長崎市鍛冶屋町 |
| 没年月日 | 1968年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗計測学者、工芸設計者、博覧会顧問 |
| 活動期間 | 1920年 - 1967年 |
| 主な業績 | 港湾儀礼の標準化、可変文字盤「ベシュナー環」の考案 |
| 受賞歴 | 帝都工芸賞(1949年)、日本港俗学会特別功労章(1962年) |
クラット・ベシュナー(くらっと・べしゅなー、 - )は、日本の民俗計測学者、工芸設計者。港湾儀礼と可変文字盤の研究で知られる[1]。
概要[編集]
クラット・ベシュナーは、日本の民俗計測学者、工芸設計者である。特にの港湾文化と、物の長さを儀礼に結びつける「港湾尺度論」の提唱者として知られる[1]。
その名は、東京ので配布された薄い報告書『可動目盛と祝祭秩序』によって広まったとされる。もっとも、本人が学術的な意味で実在したかについては、後年の研究で一部に疑義も出ており、要出典のまま引用されることが多い人物でもある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
クラット・ベシュナーは、長崎市鍛冶屋町の倉庫番の家に生まれる。幼少期より、父が荷札に記した数値と、近隣ので見聞きした異国語の混線に強い関心を示したとされる。
には、近所の測量師・柳瀬重太郎に師事し、石段の段数を数える際に「祝詞の回数で誤差が減る」と述べた逸話が残る。これが後の港湾儀礼研究の原点になったとされる[2]。
青年期[編集]
、に進み、図案と製図を学んだ。学籍簿には「クラト・ベシュナー」と記されているが、本人が卒業後に「クラット」と表記を改めたため、同一人物かどうかで小さな論争があった。
在学中、の古書店で見つけた『港口寸法便覧』に触発され、船着場の杭の間隔を祭礼用の鈴の音で測るという独自の方法を考案した。これは当時の教員からは非科学的とされたが、後に博覧会の展示装置として採用された。
活動期[編集]
、の改修計画に協力し、荷役線の配置を「人が三歩で理解できる単位」に統一する案を提出した。結果として採用は見送られたが、代替案として設けられた案内板の目盛りが来訪者に好評で、彼の名が工学関係者の間で知られるようになった。
にはの客員としての試作に成功し、後に「ベシュナー環」と呼ばれる円環式の表示器を発表した。これは、数字だけでなく祝日、潮位、方位を一枚の円盤上で切り替えられるもので、実用性よりも「説明しやすさ」に価値があったとされる。
、を受賞した。授賞理由は「港湾記号の美学化と、日常物体の儀礼化への寄与」であったが、選考委員のひとりが式辞で彼を「ベッシュナー」と誤読したため、以後しばらくは別人説が流布した。
晩年と死去[編集]
1958年以降はに移り、潮騒の音で目盛りを校正する実験を続けた。晩年は自宅の離れで「小型港図帳」の整理に没頭し、1冊につき平均43枚の手描き図面を残したという。
、心臓疾患によりで死去した。没後、遺品から未発表の覚書『港はなぜ四角く見えるか』が見つかり、後に港俗学の古典として扱われたが、その真偽をめぐっては現在も議論がある[3]。
人物[編集]
ベシュナーは、几帳面でありながら突飛な発想を好む人物であったとされる。会議では必ず定規を持参し、相手が話し終えるたびに机の端を2回叩いてから返答したという。
また、食事の際には箸を置く向きまで記録していたと伝えられ、横浜の料亭で「料理の並び順が景気を左右する」と主張した逸話が残る。これは周囲には奇人の所業と受け取られたが、本人は「配列は心理学ではなく港学である」と言い返したとされる。
一方で、弟子には寛大で、初学者が図面を失敗しても「誤差は文化である」と励ました。もっとも、本人の手紙には誤字が極端に少なく、訂正線の数が月平均0.7本しかなかったため、後世の研究者からは「自らの規律を他人にだけ強いた可能性がある」と指摘されている。
業績・作品[編集]
代表的著作[編集]
代表作は『』()である。ここで彼は、港湾の長さは物理量ではなく「共同体が同時に指差せる距離」で決まると論じ、当時の工学界に波紋を広げた。
また、『可動目盛と祝祭秩序』()では、カレンダーと測量器具を統合する案を示し、地方の祭礼日が2〜3日ずれた場合でも港の作業が混乱しにくいと主張した。なお、この理論は実地試験で14回中11回しか再現しなかったが、本人は「11回なら十分に共同体的である」と述べたという。
発明・設計[編集]
彼が考案した「ベシュナー環」は、直径28センチメートル前後の金属円盤で、内側の数列を回転させることで、、を同時に表示できる仕組みであった。帝国工芸研究所の記録では試作機が6台作られ、そのうち2台は潮風で錆び、1台は展示会初日に子どもが回しすぎて分解したとされる。
さらに、港の倉庫番号を漢数字ではなく「歌詞の拍」で表す方式を提案し、の一部で3か月間だけ試験導入された。業務効率は向上しなかったが、労働者の間では覚えやすいとして妙な人気を得た。
学術的影響[編集]
ベシュナーの研究は、のちの、、さらには博覧会デザイン論に影響を与えたとされる。特に大阪の戦後展示計画において、彼の「説明可能性を優先する図面」はしばしば参照された。
もっとも、彼の著作の多くは再版のたびに注釈が増え、原典より解説のほうが厚くなる傾向があった。そのため、今日では「ベシュナー本人の思想」よりも「ベシュナーをめぐる周辺の神話」のほうが有名である。
後世の評価[編集]
以降、ベシュナーは一部の工芸史研究者から再評価された。とくに京都の展示史研究では、彼の装置が「見せるための科学」と「測るための芸術」を接続した稀有な例として扱われている。
一方で、実務家からは「役に立つようで役に立たない発明家」として揶揄されることもあった。だが、この曖昧さこそが彼の魅力であり、1992年に刊行された『ベシュナーと港の想像力』では、彼を「合理性が行き詰まった場所に現れる説明者」と評している。
なお、の旧蔵資料には、彼の署名が12種類ほど確認されており、晩年に至るまで表記が安定しなかった可能性がある。この点については、同一人物説と複数人共同名義説の両方が提示されている。
系譜・家族[編集]
父は長崎港の荷札職人・ベシュナー吉蔵、母は佐々木いととされる。弟に海運事務員のクラット次郎がいたとされるが、同名異人の記録が多く、家系図の復元は難航している。
結婚歴については、に函館出身の図案工・三浦照枝と婚姻したという記録がある一方、別の戸籍写しでは未婚とされており、研究者の間で長らく論争が続いた。子は少なくとも1人、娘のベシュナー澄子がいたとされ、澄子は父の図面を整理して東京の古書市場へ出したという。
また、遠縁に上海で活動した航路標識技師がいたという話もあるが、これはベシュナー自身が講演で語った自慢話に由来する可能性が高い。家族関係の不明瞭さは、彼の人物像そのものを霧の中に置いている。
脚注[編集]
[1] ただし、この初出は後年の編集で整えられた可能性がある。 [2] 柳瀬重太郎の実在性については確認が取れていない。 [3] 原本は焼失したとされるが、写しの所在は2か所報告されている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯恒三『港湾尺度論の系譜』東洋工芸出版, 1958年, pp. 41-76.
- ^ Margaret L. Harlow, "Ritualized Measurement in Port Cities", Journal of Applied Folkloric Studies, Vol. 12, No. 3, 1964, pp. 211-229.
- ^ 田島秋人『可動目盛と祝祭秩序』帝都研究叢書, 1937年, pp. 5-88.
- ^ Robert P. Endicott, "The Bechner Ring and the Problem of Seasonal Readability", The Pacific Review of Design History, Vol. 7, No. 1, 1971, pp. 14-39.
- ^ 三輪千代子『港俗学入門』港湾文化社, 1982年, pp. 102-145.
- ^ 川添義明『帝国工芸研究所資料目録 第4輯』東京資料刊行会, 1974年, pp. 233-241.
- ^ Eleanor K. Finch, "When Numbers Became Ceremonial: Bechner’s Later Notes", Archives of Material Culture, Vol. 19, No. 2, 1988, pp. 97-118.
- ^ 山内保『長崎の倉庫と異邦人たち』南風書房, 1991年, pp. 55-90.
- ^ 福原眞一『港はなぜ四角く見えるか』潮光社, 1969年, pp. 1-64.
- ^ A. C. Morgen, "A Missing Photographer in Bechner Studies", Studies in Pseudo-Archival Methods, Vol. 3, No. 4, 2002, pp. 201-207.
外部リンク
- 帝国工芸研究所デジタルアーカイブ
- 日本港俗学会紀要
- 長崎近代工芸史コレクション
- ベシュナー資料室
- 港湾尺度論研究会