ジェスター・カルトゥーレ
| 氏名 | ジェスター・カルトゥーレ |
|---|---|
| ふりがな | じぇすたー・かるとぅーれ |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 出生地 | 長野県上田市近郊の旧武石村 |
| 没年月日 | 1974年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 仮面劇研究者、舞台設計家、民俗資料収集家 |
| 活動期間 | 1919年 - 1972年 |
| 主な業績 | 擬笑儀礼論の提唱、回転式仮面装置の設計、全国擬笑踏査の実施 |
| 受賞歴 | 芸能民俗学会特別賞(1956年)、信濃文化奨励章(1968年) |
ジェスター・カルトゥーレ(じぇすたー・かるとぅーれ、 - 1974年)は、日本の仮面劇研究者、舞台設計家、民俗資料収集家である。とりわけ昭和初期に提唱した「擬笑儀礼」論の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
ジェスター・カルトゥーレは、大正末期から昭和中期にかけて活動した日本の研究者である。地方の祭礼における「笑いの強制構造」を調査し、それを体系化した独自理論「擬笑儀礼」を提唱した人物として知られる[1]。
本人は東京帝国大学出身の学究を自称していたが、実際には長野県の旧制農学校で簿記と木工を学び、のちに浅草の小劇場で舞台装置の補助を務めた経歴があるとされる。なお、彼が残したノートにはからにかけて、全国か所の祭礼で収集した笑声の拍数が克明に記録されており、研究史上きわめて異例の資料群として扱われている。
カルトゥーレの名は、舞台美術の技巧と民俗学的観察を結びつけた点で注目された。また、大阪市の道頓堀で見た仮面芝居に深く影響を受けたと本人は述べていたが、その記述の一部は後年の弟子による追記ではないかとの指摘もある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、カルトゥーレは長野県の旧武石村に生まれる。父は材木商、母は村の唱歌指導を務めており、幼少期から祭礼の囃子方の後ろで帳面を付ける癖があったという。8歳のとき、の演芸見世物で見た狐面の早替わりに衝撃を受け、以後「顔が変わる瞬間の沈黙」に強い関心を持ったとされる。
にはの旧制中学に進んだが、寄宿舎で自作の紙面を用いた即席仮面芝居を上演し、風紀委員から2度注意を受けた。本人はこの経験を「制度が笑いを必要とする瞬間を知った最初の事件」と回想している[2]。
青年期[編集]
、東京へ出て浅草の小劇場「常盤座」の大道具見習いとなる。ここで舞台の回転機構を覚えたことが、のちの代表作「回転式仮面装置」の着想につながったとされる。1920年代前半にはの古本屋街で民俗誌や海外の演劇書を蒐集し、特にの断片的訳書と、なぜかの人形劇パンフレットを手放さなかった。
には東京帝国大学の公開講座に聴講生として出入りし、の講義に強く影響を受けたとも伝えられる。ただし、当時の講義名簿に彼の名はなく、後年の回想録で突然「師事した」と書き足されていることから、事実関係には揺らぎがある。
活動期[編集]
、カルトゥーレは「全国擬笑踏査」と称する巡歴調査を開始し、からまで祭礼・大道芸・村芝居を記録した。調査票は全部でに及び、うちは同じ紙に裏表で3つの欄を増設したため、保存担当者を悩ませた。彼は各地で笑いの発生を「自発」「誘発」「強制」「儀礼返礼」の4類型に分け、笑いが集団の結束を担保すると論じた。
、京都で開かれた民俗芸能研究会で「擬笑儀礼」を初めて公表し、聴衆の一部から拍手、別の一部から失笑を受けたという。以後、周辺の若手研究者に影響を与えたが、理論の一部は舞台設計の発想を民俗全体へ拡張しすぎているとして批判も多かった。なお、彼の調査には「笑いの長さを秒ではなく肩の揺れ幅で記録する」という独特の手法があり、再現性に疑義が出たこともある。
には芸能民俗学会特別賞を受賞し、1958年以降はの嘱託として各地の仮面・面衣の分類に携わった。晩年は奈良の古寺で写本整理を行いながら、未完の大著『面の沈黙学』を執筆したが、原稿の一部は台所の米びつから見つかったと伝えられている。
人物[編集]
カルトゥーレは寡黙で几帳面な人物として知られる一方、舞台の仕掛けや祭礼の囃子が始まると急に饒舌になったという。机上では定規を使って仮面の鼻筋を計測するほど神経質であったが、外出時は必ず片方の靴紐だけを長く結び、「偶然の乱れを許容するためである」と説明していた。
逸話として、仙台での調査中に祭礼の面打ち職人から「学者は顔を見ていない」と叱られた際、彼は3時間にわたり無言で座り、最後に「見ているのは顔ではなく、顔を信じる群衆である」と答えたという。もっとも、この話は弟子のが誇張して記した可能性がある。
また、彼はに大量の砂糖を入れる習慣があり、1杯につき角砂糖を個までと決めていた。理由は「7を超えると議論が甘くなりすぎる」ためとされたが、実際には単に苦味を嫌っていたともいわれる。
業績・作品[編集]
主な理論[編集]
カルトゥーレの代表的業績は、「擬笑儀礼」論である。これは、共同体が笑いを用いて不安や境界意識を調整し、外来者や異端の存在を一時的に包摂する仕組みを説明する理論で、の民俗芸能研究に独特の視角を与えた。
彼はさらに「顔は個人の所有物ではなく、場の貸与物である」とする過激な命題を提示し、祭礼面・道化・舞台化粧を同一系列として扱った。この発想は後のやにも影響したが、顔面の所有権を論じる章だけは、現在でも「読み物としては面白いが、学術的には危うい」と評される。
作品・著作[編集]
代表作に『面の沈黙学』(未刊)、『笑いの拍数と村の秩序』(1941年)、『回転式仮面装置図譜』()、『擬笑儀礼入門』()などがある。特に『回転式仮面装置図譜』は、1冊で種類の面の着脱法を図解した手帳形式の著作で、研究者だけでなく小劇場の裏方にも愛用された。
また、の論文「道化の沈黙はなぜ長いか」では、祭りの笑いが一斉に起こる直前に平均の間が存在することを示したとされるが、測定法が「目測と足踏みの合算」であったため、要出典とされることが多い。
後世の評価[編集]
カルトゥーレの評価は、学術的には賛否が分かれる。擬笑儀礼論はとの境界を越えた試みとして再評価される一方、データの採取方法がきわめて主観的であることから、統計的裏づけに乏しいとの批判も根強い。
一方で、以降のパフォーマンス研究では、彼の「笑いは共同体の接合部である」という見立てがしばしば引用された。また、1998年にで開催された回顧展では、彼の手帳に書かれた「群衆は面を外したあとに本当の顔をつくる」という一文が来場者の人気を集めた。
なお、近年では一部の舞台関係者が彼を「日本の仮面設計の隠れた祖」と呼ぶこともあるが、専門家の間ではやや誇張として扱われている。ただし、彼の名称が残した語感の強さだけは例外であり、学会の打ち上げなどで冗談半分に「今日はジェスター的である」と言われることがある。
系譜・家族[編集]
カルトゥーレの父・は材木商、母・は唱歌と裁縫を教えていた。兄に、妹にがおり、庄一はのちにで額縁職人となったとされる。
妻はで、1934年に結婚した。2人のあいだに子はなく、晩年は弟子のを事実上の後継者として扱ったため、一部の資料では庄一が養子であったかのように記されるが、戸籍上の確認はされていない。なお、ミドリは夫の調査旅行に同行した数少ない人物であり、各地の祭礼で「笑う前に手袋を外す癖」を周囲に広めたという。
家系としては、江戸後期から続く農家の分流に位置づけられることが多いが、本人は晩年、「うちの家系は血筋よりも仮面の数で数えるべきだ」と述べたと伝えられている。
脚注[編集]
[1] 佐伯久雄『日本擬笑儀礼史序説』民芸研究社, 1962年.
[2] 高瀬庄一「旧制中学における即席仮面劇の記録」『季刊 民俗舞台』第12巻第3号, 1978年, pp. 44-51.
脚注
- ^ 佐伯久雄『日本擬笑儀礼史序説』民芸研究社, 1962年.
- ^ 高瀬庄一「旧制中学における即席仮面劇の記録」『季刊 民俗舞台』第12巻第3号, 1978年, pp. 44-51.
- ^ M. A. Thornton, “Laughter, Masks, and Village Order in Prewar Japan,” Journal of Comparative Ritual Studies, Vol. 8, No. 2, 1967, pp. 113-147.
- ^ 北見俊彦『仮面と沈黙の民俗誌』青陵書房, 1959年.
- ^ 宇賀神清一「回転床装置の設計史」『舞台技術史研究』第5巻第1号, 1981年, pp. 9-26.
- ^ Eleanor P. Vance, The Mechanics of Public Smiles, Oxford Ritual Press, 1971.
- ^ 石田あきら『長野県芸能調査ノート』信州文化資料刊行会, 1949年.
- ^ 「道化の沈黙はなぜ長いか」『芸能民俗学報』第7巻第4号, 1959年, pp. 201-219.
- ^ 斎藤和之『面の沈黙学とその周辺』国立演芸資料館出版部, 1993年.
- ^ Harold J. Pembroke, “The Carture Problem: A Case of Overmeasured Folk Performance,” Ethnography and Stagecraft Quarterly, Vol. 3, No. 1, 1988, pp. 1-29.
外部リンク
- 国立演芸資料館デジタルアーカイブ
- 信濃民俗舞台研究所
- 仮面劇史資料室
- 擬笑儀礼研究会
- 浅草小劇場連盟アーカイブ