ネオコラショ
| 氏名 | 新倉 政春 |
|---|---|
| ふりがな | にいくら まさはる |
| 生年月日 | 1931年7月18日 |
| 出生地 | 東京都深川区(現・東京都江東区) |
| 没年月日 | 1994年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工芸家、編集者、講演家 |
| 活動期間 | 1954年 - 1994年 |
| 主な業績 | ネオコラショ理論の体系化、移動展示『都市の祝祭具』の開催 |
| 受賞歴 | 東京都文化奨励賞、全国手帖会特別功労章 |
新倉 政春(にいくら まさはる、 - )は、日本の民俗工芸家、編集者である。ネオコラショ運動の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
ネオコラショは、昭和後期の東京都を中心に流行した民間祝祭運動であり、その実践者として新倉政春が知られる。彼は、日常の作業手順に儀礼性を与えることで都市生活の疲労を軽減できると主張し、これを「再編された所作の美学」と定義した。
一方で、ネオコラショは単なる生活改善運動ではなく、の職人文化、戦後編集文化、さらにの断片的知見が混交して成立したとされる。新倉が用いた「コラショ」という語の語源については諸説あり、の舟歌に由来するという説と、印刷所で用いられた掛け声の変形という説が有力である[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
新倉は、の紙問屋の二男として生まれた。幼少期から帳簿整理と木箱の積み直しを手伝い、祖父が毎朝行っていた「三度の黙礼」を観察したことが、後の理論形成の原点になったとされる。
近隣にはや材木商の倉庫群があり、彼は祭礼と物流が同じ通りに共存する環境で育った。後年、新倉はこれを「機能が先にあり、祝祭があとから追随する都市の原型」と呼んだ。
青年期[編集]
、新倉は早稲田大学の夜間課程に進み、国文科系の講義を断続的に聴講したが、正規の単位取得には至らなかったとされる。その後、印刷会社に勤めながら、手帖、包装紙、配布ビラの余白に所作の図を描き込む習慣を身につけた。
この時期、彼は神田神保町の古書店主・木島徳次に師事し、明治末期の礼法書と町内会記録を比較する読書会に参加した。木島は新倉を「字を読んでいるのではなく、段取りを読んでいる」と評したという[3]。
活動期[編集]
、新倉は東京オリンピック関連の臨時装飾を請け負った工芸集団に出入りし、現代的な標識と祝祭的な結び方を接続する試みを始めた。翌年、彼は雑誌『都市手帖』に「ネオコラショ宣言」を寄稿し、都市における小規模な儀礼の再編を提案した。
には、銀座の喫茶店で開催された私的な発表会で、来場者14名に対し「立つ・折る・置く」の三動作を1分40秒で行わせる実演を行った。記録によれば、実演後に3名が「肩こりが軽減した」と述べ、2名は逆に「意味がわからず元気が出た」と回答した。
、大阪の小展示会で行われた『三秒礼法』は大きな反響を呼び、以後、ネオコラショはの文具店、労働組合会館、大学祭などへ拡散した。なお、この頃から一部の編集者がネオコラショを「生活改善運動」と誤記し始めたが、新倉はあえて訂正せず、曖昧さ自体を普及の媒体として利用したとされる。
晩年と死去[編集]
1980年代に入ると、新倉は講演活動を減らし、の借家で実技記録の整理に専念した。晩年には、紙片を折りたたんで持ち運べる「携帯祝詞カード」48種の編纂に取り組み、完成版は死後に断片的に公開された。
、新倉はで死去した。死因は心不全とされるが、同時期に進行していた大規模展示の搬入調整と睡眠不足が影響したとの指摘もある。葬儀では参列者が各自の持参した封筒を一斉に90度回転させる「最後のコラショ」が執り行われたという。
人物[編集]
新倉は、几帳面である一方、説明の途中で必ず比喩を挟む癖があったとされる。彼は「手順とは、時間の中で畳まれた挨拶である」と述べ、周囲を半ば納得させ、半ば困惑させた。
また、来客に茶を出す際、湯呑みの取っ手の向きを3回だけ微調整してから卓上に置く習慣があり、弟子たちはこれを「第4動作の抑制」と呼んでいた。本人はこれを礼儀ではなく「視線の休憩装置」であると説明していた。
逸話として有名なのは、1976年の講演で停電が起きた際、新倉が即興で蝋燭を並べ直し、暗闇のまま30分間講義を続けた件である。聴衆の多くは内容を覚えていないが、「やけに整っていた」という感想だけが残ったという[4]。
業績・作品[編集]
新倉の代表作は、の小冊子『ネオコラショ入門』である。これは全32頁の薄い冊子であったが、配布先のでは返却期限を過ぎても返されることが多く、後に貸出職員のあいだで「読了より先に折り目が増える本」と呼ばれた。
には、折りたたみ式の掲示具『可搬型礼板』を発表した。これは一見すると案内板に見えるが、使用者が自分で角度を決める必要があり、その決定過程を「参加型コラショ」と命名した点が評価された。なお、試作品のうち7台は風で倒れやすく、江東区の倉庫で一度だけ全損している。
1974年の『都市の祝祭具』は、の巡回展示とも連動し、来場者数は3会場合計で18,420人と記録されている。もっとも、この数字は入場者数ではなく「触れてみた回数」とする内部記録もあり、集計方法については今なお議論がある[5]。
に刊行された『折り目の政治学』では、コラショの実践を「国家でも家族でもない第三の整列」と位置づけた。章題の一つに「文具はなぜ儀式に向くのか」があり、後年の文具研究者に頻繁に引用された。
後世の評価[編集]
新倉の没後、ネオコラショは一時的に忘却されたが、からとの接点で再評価された。特に、バブル崩壊後の都市生活において「小さな整え直し」を提案した点が注目され、や東京工芸大学のゼミで取り上げられた。
一方で、実践の多くが再現不可能であることから、評価はしばしば「思想は先進的だが、手順がやや多い」と要約される。2011年にはで回顧展が開催され、来場者アンケートの自由記述欄に「よくわからないが、机の上を片づけたくなった」との回答が多数寄せられた。
また、海外ではロンドンの小規模アートスペースで紹介され、英訳された『Neo Korasho』は「Japanese procedural folklore」として扱われた。ただし英語圏では「Korasho」を掛け声ではなく人物名と誤読する例が多く、翻訳者の注記が長文化する原因となった。
系譜・家族[編集]
新倉家はの紙問屋を営んでいた家系で、父・新倉義一は帳合、母・新倉すみは祝儀袋の装飾を担当していた。姉の新倉信子は生まれで、戦後は墨田区の洋裁学校に勤め、弟の所作理論に最初に批判的であったとされる。
配偶者は1958年に結婚した新倉澄江で、彼女は新倉の活動を支えつつ、実際には家計簿のほうに強い関心を持っていたという。長男・政一は建築関係の仕事に就き、父の理論を「設計図に向いた思想」として部分的に継承した。
なお、新倉の孫にあたる新倉理菜は、に祖父の資料を整理する過程で、未発表のメモ「コラショは3回まで」が見つかったと証言したが、原本の所在は確認されていない[6]。
脚注[編集]
[1] 新倉政春研究会『都市手順と儀礼の変形』、中央生活史研究叢書、1997年、pp. 14-19。
[2] 田所由紀『深川方言と戦後編集語彙』、下町文化出版社、2004年、pp. 88-93。
[3] 木島徳次『古書店主覚書 第二巻』、神田文庫社、第2巻第4号、1961年、pp. 201-204。
[4] 佐伯真奈美「停電下講話における所作再編の一事例」『民俗実演研究』Vol. 8, No. 2, 1981, pp. 55-61。
[5] 国立民族学博物館編『都市の祝祭具 展覧会記録』、みんぱく記録刊行会、1975年、pp. 3-7。
[6] 新倉理菜「家族文書における折り目の継承」『近代生活資料』第12号、2018年、pp. 119-123。
脚注
- ^ 新倉政春研究会『都市手順と儀礼の変形』中央生活史研究叢書, 1997.
- ^ 田所由紀『深川方言と戦後編集語彙』下町文化出版社, 2004.
- ^ 木島徳次『古書店主覚書 第二巻』神田文庫社, 1961.
- ^ 佐伯真奈美「停電下講話における所作再編の一事例」『民俗実演研究』Vol. 8, No. 2, 1981, pp. 55-61.
- ^ 国立民族学博物館編『都市の祝祭具 展覧会記録』みんぱく記録刊行会, 1975.
- ^ 新倉理菜「家族文書における折り目の継承」『近代生活資料』第12号, 2018, pp. 119-123.
- ^ Margaret L. Haversham, Procedural Folklore in Postwar Tokyo, Eastbridge Press, 2002, pp. 41-58.
- ^ Kenjiro Aihara『The Politics of the Fold』Kanda Academic Review, Vol. 3, No. 1, 1988, pp. 9-17.
- ^ 中谷俊介『可搬型礼板の設計史』東京文具研究所出版部, 1991, pp. 72-79.
- ^ Eleanor P. Wills, Rituals of Everyday Order, University of Brighton Press, 2010, pp. 133-146.
- ^ 『コラショと都市空間の倫理』生活記号学会誌 第6巻第3号, 1999, pp. 201-209.
- ^ 木村澄江『夫の手順、妻の帳簿』青鳩書房, 1995, pp. 5-11.
外部リンク
- 東京都現代生活資料館
- ネオコラショ文庫
- 深川民俗工芸研究会
- 折り目史データベース
- 全国手帖会アーカイブ