両翼運動
| 正式名称 | 両翼運動 |
|---|---|
| 英語名 | Twin Wing Movement |
| 発祥地 | 東京都神田区(現・千代田区神田周辺) |
| 提唱者 | 渡瀬 恒一郎 |
| 成立時期 | 1934年頃 |
| 主な媒体 | 講習会、回覧誌、鉄道沿線の掲示板 |
| 主要器具 | 木製双翼板、鉛製重心帯 |
| 関連分野 | 身体技法、都市余暇文化、群衆統制 |
| 代表施設 | 両翼会館 |
両翼運動(りょうよくうんどう、英: Twin Wing Movement)は、東京都ので発生したとされる、左右2つの翼状の器具を同調させて身体の旋回効率を高める運動体系である[1]。のちに、、の3分野へ派生し、20世紀後半の都市文化に奇妙な影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
両翼運動は、左右の腕または補助器具を「翼」とみなし、重心をわずかに外へ逃がしながら動作を往復させることで、疲労を抑えつつ推進感を得るとされた身体技法である。創始者のは、の嘱託職員であったが、実際にはの古書店街で観察した紙芝居の所作を運動理論へ転用したと伝えられている[1]。
名称の「両翼」は、左右対称の運動が「鳥類の飛翔に近い安定性」を生むという彼の独自説に由来するとされる。ただし、初期資料の一部では「両翼」は政治的な意味での「両派」を指すとも記されており、起源には諸説ある。この曖昧さが後年、新橋の会社員から浅草の大道芸人まで幅広い層を巻き込む要因になったとされている[2]。
歴史[編集]
成立と初期の普及[編集]
1934年、渡瀬はの貸会議室で第一回講習を開き、参加者12名に木製双翼板を配布した。双翼板は厚さ9ミリ、羽根の開きが27度のものが標準とされ、角度が28度を超えると「思考が先行しすぎる」として使用停止になったという[3]。
1937年にはの呉服商組合が健康法として導入し、昼休みの15分間に両翼運動を行う社内慣習が生まれた。ところが同年の冬、会計係が誤って羽根の片側のみを発注し、結果として「片翼訓練」が1か月間実施された。これが逆に腰痛軽減に有効であったため、以後は「半両翼流」として派生したとされる。
戦時下の変質と官制化[編集]
昭和17年頃になると、両翼運動は厚生省系の健康増進標語に吸収され、工場労働者の整列体操へ組み込まれた。講師派遣記録には、川崎の機械工場で1日平均436人が受講したという数字が残るが、実際には見学者と昼食当番を合算した数であったとの指摘がある[4]。
また、の一部では「両翼で風を作れ」という標語が採用されたが、軍用に転用されたのは腕の動きではなく、行進時の外向き荷重を利用した靴底の摩耗分散法であった。これにより靴の耐用年数が約2.3倍になったとされる一方、歩幅が不自然に広がり、閲兵式の写真で兵士の膝がやや奇妙に見えることが問題になった。
戦後の再発見[編集]
戦後、両翼運動はいったん廃れたが、1958年に早稲田の民俗学研究会が『都市身体誌ノート』の中で再評価し、舞踊とエクササイズの中間に位置する稀少な実践として紹介した[5]。この時期に提唱された「三拍子一翼歩法」は、3歩で左右1回ずつ翼を開閉するという単純なものであったが、実演すると必ず4歩目で皆が笑い出すため、広場の余興として定着した。
1964年の東京オリンピック開催時には、ボランティア誘導員の訓練に応用されたとする記録があり、国立競技場周辺で白い上着の係員が同じ方向へ同時に腕を振る姿が確認されている。なお、当時の写真は多くが逆光で、両翼運動なのか単なる日差し避けなのか判然としない。
技法[編集]
基本構え[編集]
両翼運動の基本は「開・留・収」の三段階である。まず肩を水平に保ったまま両腕を17度外側へ開き、次に0.8秒留め、最後に胸の前で交差させずに戻す。渡瀬はこのとき「左右は交わらない。だが心は交わる」と述べたとされるが、講習録の筆跡が全体的に同一であるため、後年の加筆とみる研究者もいる[6]。
上級者になると、左右の翼に微妙な位相差を設ける「遅翼法」が用いられる。これは集団で実施した際、前列と後列の動きが半拍ずれ、遠目には一つの巨大な鳥の群れのように見えることから、上野公園の野外催しで人気を博した。
器具と服装[編集]
標準器具は、桐材で作られた双翼板と、腰部に巻く鉛製重心帯である。重心帯は当初150gだったが、昭和30年代には「家庭用の飯椀と同等の安心感がある」として320g版が普及した。これにより腰回りの安定は増したものの、夏場の横浜では汗で滑りやすく、訓練中に7名が一斉に台から降り損ねた事件が記録されている[7]。
服装は裾の広い上衣が推奨され、袖口には小さな紐が付く。これは風圧を可視化するためとされるが、実際には講師が「見た目でやる気がわかる」と考えたために過ぎない。のちに高校の体操着へ一部流用され、白地に青い縁取りが「両翼式」と呼ばれることもあった。
社会的影響[編集]
両翼運動は単なる健康法にとどまらず、集団同期の訓練として企業研修や町内会行事にも採用された。とくに大阪の百貨店では、開店前の3分間を使った「朝の両翼」が恒例化し、売り場の空気が妙に落ち着くとして好評であった[8]。
一方で、両翼運動は「左右均衡」という理念が強すぎたため、政治的スローガンに借用されることもあった。1952年の都議会選挙では、ある候補者が演説台の上で両翼の開閉を繰り返し、聴衆から「何を主張しているのかわからないが、姿勢だけはいい」と評されたという。これ以後、選挙公報の写真で腕を広げすぎると票が伸びないという半ば迷信的な通説が生まれた。
批判と論争[編集]
批判の中心は、運動効果の検証がきわめて曖昧であった点にある。東京帝国大学の生理学者・は、両翼運動を30日続けても肺活量の増加は平均4.1%にとどまり、むしろ「気分が良くなったと自己申告する率」が高いだけだと報告した[9]。ただしこの報告書は、被験者の半数が研究室の鏡を見て笑っていたため、純粋な測定といえるか疑問も残る。
また、1960年代には「両翼運動は本来、都市労働者の服従訓練ではないか」とする批判が朝日新聞系の論壇で散発的に見られた。しかし関係者はこれを否定し、渡瀬自身が「翼とは命令ではなく余白である」と語ったとされる。なお、その出典は講演録ではなく、晩年に鎌倉の旅館で書かれたとされる絵はがき1枚のみである。
主な流派[編集]
神田正統派[編集]
もっとも古い系統で、動作の正確さよりも「羽音のような静けさ」を重視する。講習の最後に全員で机を軽く叩く慣習があり、これは翼が閉じる音を代替するためと説明されているが、実際には会場が木造でうるさかったための苦肉の策であった。
横浜港湾派[編集]
港湾労働者が独自に発展させた派で、荷物の積み下ろし動作と融合した。1回の訓練で平均1.7トン分の荷役動線が改善したとされるが、算出方法は「体感ベース」であり、統計としてはかなり怪しい。
関西余興派[編集]
笑いを伴うことを前提とする流派で、京都の旅芸人に受け継がれたとされる。特に「遅翼法」の際にわざと片足を引きずる演出が加わり、見物客が真似をして転ぶため、町内ではしばしば禁止された。
文化的受容[編集]
両翼運動は、昭和後期のテレビ番組で健康企画として再登場し、スタジオの照明を反射して「鳥のように見える」と話題になった。司会者が1分半のデモを行っただけで、翌週には視聴者から約8,000通の問い合わせが届いたとされるが、その大半は「どこで双翼板を買えるのか」ではなく「なぜ妙に真面目なのか」という内容であった[10]。
また、近年ではのダンス教室が「両翼エクササイズ」として再商品化し、1クラスあたり定員14名、受講時間48分、平均満足度92.6%を掲げている。もっとも、講師の一人が毎回最後に「本家とは無関係です」と言い添えるため、むしろ本家らしさが増しているとの評価もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡瀬 恒一郎『両翼運動概論』両翼出版社, 1936.
- ^ 有沢 兼次「両翼動作における位相差の測定」『東京生理学雑誌』Vol. 12, No. 4, 1959, pp. 211-227.
- ^ 佐伯 みどり『都市の翼と身体』新潮研究社, 1971.
- ^ M. A. Thornton, "Twin Wing Postures in Interwar Tokyo", Journal of Invented Kinesiology, Vol. 8, No. 2, 1984, pp. 44-63.
- ^ 渡辺 精一郎「神田における双翼板の流通」『民俗技芸研究』第5巻第1号, 1962, pp. 9-18.
- ^ E. H. Lark, "A Short History of the Twin Wing Movement", The Review of Urban Exercise, Vol. 3, No. 1, 1976, pp. 1-19.
- ^ 『両翼運動とその周辺』東京市文化局編, 1941.
- ^ 小林 仁『戦後体操史の隙間』平凡社, 1990.
- ^ 藤堂 夏子「片翼訓練の効用について」『港湾労務月報』第19巻第7号, 1967, pp. 33-41.
- ^ Harold J. Penrose, "Why Did Everyone Laugh? Notes on Bi-Wing Calisthenics", London Institute Papers, Vol. 2, No. 5, 1993, pp. 77-88.
外部リンク
- 両翼運動アーカイブス
- 神田身体文化研究会
- 都市余暇運動デジタル図書館
- 両翼会館記念資料室
- 日本架空体育史協会