安永 響内閣総理大臣
| 人名 | 安永 響 |
|---|---|
| 各国語表記 | Hibiki Yasunaga |
| 画像 | Yasunaga_Hibiki_1964.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 第67代内閣総理大臣就任時の安永響 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | Flag of Japan |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 安永内閣、第一次改造安永内閣、第二次改造安永内閣 |
| 就任日 | 1964年7月8日 |
| 退任日 | 1968年11月21日 |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 没年月日 | 1989年11月2日 |
| 出生地 | 東京都下谷区(現・台東区) |
| 死没地 | 神奈川県鎌倉市 |
| 出身校 | 帝都大学法学部 |
| 前職 | 大蔵省官僚 |
| 所属政党 | 自由党 |
| 称号・勲章 | 従一位・大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 安永 由岐 |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 安永 継一(甥、衆議院議員) |
| サイン | Hibiki Yasunaga Signature.svg |
安永 響(やすなが ひびき、{{旧字体|安永響}}、[[1912年]]〈[[大正]]元年〉[[4月18日]] - [[1989年]]〈[[平成]]元年〉[[11月2日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第67代[[内閣総理大臣]]。ほか、[[大蔵大臣]]、[[通商産業大臣]]、[[自由党 (架空政党)|自由党]]幹事長などを歴任したとされる。
概説[編集]
安永 響は、戦後日本における財政均衡主義と高速成長政策の折衷を体現した政治家であり、官僚出身の合理主義者として知られている。政界では「帳簿で国家を語る男」と呼ばれ、地方交付税の算定方式を巡る改定で一躍名を広めたとされる。
第67代内閣総理大臣として、1960年代半ばの東京都を中心とする都市過密、輸出産業の急伸、アジア諸国との通商再編に向き合った人物である。なお、晩年にまとめたとされる『響式国家運営論』は、官邸の金庫から見つかった未完成原稿が基礎になったという説があるが、要出典である。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
安永は東京都下谷区に、呉服商の父・安永庄右衛門と、旧華族の血筋を引く母・雪枝の長男としてに生まれる。幼少期から帳簿と地図に強い関心を示し、近所の質屋の金庫番号まで記憶していたと伝えられている。
一家は関東大震災後に神奈川県へ移り、そこで彼は港湾倉庫の在庫管理を見て「国家もまた倉庫である」と語ったとされる。この発言は後年の財政思想の原点としてしばしば引用された。
学生時代[編集]
帝都大学法学部に入学し、当時の財政学講座に所属した。同期には後の官僚や新聞記者が多く、安永は討論会で「税は徴収ではなく整流である」と述べ、学内で妙な人気を博した。
在学中はボート部にも籍を置き、しかし実際には漕艇よりも艇庫の経費精算を得意としたという。1934年に卒業し、同年にへ入省した。
政界入り[編集]
官僚としては主計局、理財局、外債課を経て、占領期には財政安定本部の実務班を代表する立場に置かれた。1951年に退官後、自由党に所属し、に立候補して初当選を果たした。
当時の選挙区では、駅前で米袋の目方を即答する演説が名物となり、対立候補の批判をしながらも、最後は必ず「予算は感情より重い」と締めくくった。これにより、官僚臭さがかえって信頼感に転じたとの指摘がある。
大蔵大臣時代[編集]
1958年にに就任し、国債の発行枠をめぐる調整と、地方税の再配分制度の導入を推進した。閣僚としては国際収支の安定化を優先し、輸入制限の緩和と国内産業保護を同時に進める二重政策を採った。
この時期、彼は省内に「端数局」と呼ばれる非公式会合を設け、1円未満の予算余剰まで議論させたとされる。なお、この制度は秘書官の証言以外に裏づけが乏しい。
内閣総理大臣[編集]
1964年、党内の派閥調整を経て第67代内閣総理大臣に就任した。安永内閣は、東京オリンピック後の景気過熱と地方疲弊の同時進行に対応するため、公共事業の配分基準を距離ではなく物流日数で算定する「日数主義」を導入したとされる。
また、官邸には「朝会三分遅延制」が設けられ、閣僚は定刻より3分遅れて入室することが礼儀とされた。これは緊張緩和のためと説明されたが、実際には安永自身が早起きしすぎるのを防ぐためだったとも言われる。
退任後[編集]
1968年に退任後は政界の長老として活動し、後進の派閥争いには直接関与しない姿勢を装いながら、実際には封書で細かな助言を送っていた。1980年代には地方財政研究会の名誉会長を務め、各地の市長に「赤字は恥ではないが、説明不能な赤字は罪である」と説いた。
1989年に死去し、神奈川県鎌倉市の自宅書斎で、未整理の予算カードを抱えたまま倒れていたという。死後、机の引き出しから三角定規で書かれた内閣構想図が見つかったとされる。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
安永の内政は、中央集権的な財政管理と地方への限定的な再配分を両立させることに特徴があった。特にの算定では、人口だけでなく「港までの傾斜角」を加味する方式を提唱し、山間部の県から強い支持を得た。
一方で、都市部の住宅不足に対しては、1戸あたりの畳数を法で細かく定める規制を検討したが、業界団体から反発を受け、結果的に「畳未満の自由」という奇妙な政治語だけが残った。
外交[編集]
外交面では、アメリカ合衆国との安保協調を維持しつつ、諸国への経済援助を通商拡大の手段として用いた。安永は、首脳会談で相手国の閣僚に必ず自国の倉庫台帳を見せる癖があり、これが「信用の可視化外交」と呼ばれた。
また、ある訪問の際、港湾視察で雨天にもかかわらず傘を差さず、現地紙に「日本の首相、空模様より残高を気にする」と報じられた。本人はこれを気に入り、以後の記者会見でしばしば引用した。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
寡黙で知られたが、沈黙は威圧のためではなく計算のためであったとされる。会議中に黙り込むと、秘書官がホワイトボードに数字を書き始めるのが合図であり、周囲はそれを「安永の無言承認」と呼んだ。
逸話としては、永田町の料亭で出された寿司の値段を聞き、ネタではなく「一人前の在庫回転率」に関心を示した話が有名である。
語録[編集]
「国家とは、感情の集合ではなく、支払期日の集合である」
「予算案は美しいほど危険である。必ずどこかが嘘をついているからだ」
「外交とは、相手国の倉庫の鍵を褒めることである」
これらの語録は、のちに自由党の新人研修で暗唱させられたが、出典が不明なものも多い。
評価[編集]
支持者からは、戦後復興期の硬直した財政運営に柔軟な現実主義を持ち込んだ人物として評価されている。特に、道路・港湾・電力を連動させる三位一体型のインフラ投資は、1960年代後半の輸出拡大に寄与したとされる。
一方で、反対派は、安永が数字に強すぎるあまり、生活者の感情や地域文化を軽視したと批判した。地方紙の中には、彼の政策を「四角い正しさ」と評するものもあった。また、官邸の会議資料にしばしば同じ朱書きが残されていたことから、実務の一部は秘書官任せだったのではないかとの指摘がある。
家族・親族[編集]
父・庄右衛門は下谷の呉服商、母・雪枝は旧家出身で、安永家は商家と半士族の系譜にあるとされた。妻の由岐は女子高等師範学校を卒業した教養人で、選挙運動では「候補者本人より演説が長い」と評された。
長男の安永修一は銀行員、次男の安永達也は通産系企業の役員、長女の安永美津子は教育関係者となった。甥の安永継一は後に衆議院議員となり、親族の中で唯一、安永の直筆メモを公的に引用した政治家である。
選挙歴[編集]
1952年で初当選を果たしたのち、以後6回連続で当選した。選挙区は東京都第三区からのちに再編され、都市部の労働者層と商店主層の双方を取り込む珍しいタイプの地盤を形成した。
1960年選挙では、対立候補が街頭で「安永は役人上がり」と批判したのに対し、安永は翌日の新聞広告で「役人上がりではない、役所の下りである」と応酬した。この一文が大きな話題となり、結果として2万3,418票差で再選されたとされる。
栄典[編集]
1968年に[[勲一等旭日大綬章]]、1975年に[[大勲位菊花章頸飾]]を受章し、1987年には[[従一位]]が追贈された。官報には、彼の叙位叙勲に際して「終始一貫シテ会計秩序ヲ尊重シタ」とあるが、これは後年の編集でやや脚色された可能性がある。
なお、安永は勲章を受けた夜に「箱だけは立派だ」と呟いたとされ、秘書官がこの発言を不敬と受け取るべきか冗談と解釈すべきかで1週間議論したという。
著作/著書[編集]
『国家会計の現場』(1959年、中央公論社)
『日数で考える政治』(1966年、東京財政研究会)
『安永響回想録 予算と背広』(1978年、岩波書店)
『響くように治める』(1984年、講談社)
これらのうち『予算と背広』は、実際には編集者が強くタイトルを推したため、本人は終生不満だったとされる。
関連作品[編集]
安永を題材にした映画『三分遅れの官邸』(1972年)は、政治家というより倉庫管理者の悲哀を描いた作品として知られる。主演の俳優が予算書の持ち方を徹底的に研究したことでも話題となった。
また、NHK特集『帳簿が動く日』では、彼の官邸でのメモ習慣が再現され、視聴者から「地味なのに妙に面白い」と高い反響を得た。さらに、昭和末期には漫画『永田町の端数』に登場し、若年層への再評価が進んだ。
脚注[編集]
注釈
[1] 安永の生年については、戸籍原本と地方紙報道で日付が一致しないという指摘がある。
[2] 第67代内閣総理大臣という代数は、戦後の再編成を含む独自集計によるとされる。
出典
[3] 『帝都大学法学部卒業生名簿 昭和9年度版』帝都大学出版局、1934年。
[4] 田所一郎『戦後財政と官僚政治』日本経済評論社、1969年、pp. 114-139。
[5] 山崎尚『安永内閣の研究』有斐閣、1970年、Vol. 12, No. 3, pp. 201-228.
[6] 大蔵省史編集室『戦後予算制度史』大蔵省印刷局、1976年、第4巻第2号、pp. 88-102.
[7] Margaret L. Holloway, "Budget Discipline and Cabinet Leadership in Postwar Japan", Journal of East Asian Governance, Vol. 8, No. 1, pp. 17-46, 1982.
[8] 佐伯良平『永田町の会計術』新潮社、1985年、pp. 59-77.
[9] Hiroshi Kanda, "The Three-Minute Delay Rule: An Administrative Myth", Pacific Political Review, Vol. 15, No. 4, pp. 301-309, 1988.
[10] 『安永響文書目録』鎌倉政治資料館、1990年、pp. 1-264.
参考文献[編集]
田所一郎『戦後財政と官僚政治』日本経済評論社、1969年。
山崎尚『安永内閣の研究』有斐閣、1970年。
大蔵省史編集室『戦後予算制度史』大蔵省印刷局、1976年。
佐伯良平『永田町の会計術』新潮社、1985年。
Hiroshi Kanda, "The Three-Minute Delay Rule: An Administrative Myth", Pacific Political Review, Vol. 15, No. 4, pp. 301-309, 1988.
Margaret L. Holloway, "Budget Discipline and Cabinet Leadership in Postwar Japan", Journal of East Asian Governance, Vol. 8, No. 1, pp. 17-46, 1982.
小森健二『背広と国家運営』講談社、1979年。
内海京子『官邸の数字たち』中央公論新社、1987年。
『安永響文書目録』鎌倉政治資料館、1990年。
鈴木彦次『予算の美学とその限界』東京大学出版会、1974年。
外部リンク[編集]
鎌倉政治資料館 安永響コレクション
国立国会図書館デジタルコレクション 安永響関連資料
永田町人物録 アーカイブ
戦後内閣研究会 安永内閣特設ページ
帝都大学法学部 同窓会名鑑
脚注
- ^ 田所一郎『戦後財政と官僚政治』日本経済評論社、1969年。
- ^ 山崎尚『安永内閣の研究』有斐閣、1970年。
- ^ 大蔵省史編集室『戦後予算制度史』大蔵省印刷局、1976年、第4巻第2号、pp. 88-102.
- ^ 佐伯良平『永田町の会計術』新潮社、1985年、pp. 59-77.
- ^ Margaret L. Holloway, "Budget Discipline and Cabinet Leadership in Postwar Japan", Journal of East Asian Governance, Vol. 8, No. 1, pp. 17-46, 1982.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Three-Minute Delay Rule: An Administrative Myth", Pacific Political Review, Vol. 15, No. 4, pp. 301-309, 1988.
- ^ 小森健二『背広と国家運営』講談社、1979年。
- ^ 内海京子『官邸の数字たち』中央公論新社、1987年。
- ^ 鈴木彦次『予算の美学とその限界』東京大学出版会、1974年。
- ^ 『安永響文書目録』鎌倉政治資料館、1990年。
外部リンク
- 鎌倉政治資料館 安永響コレクション
- 国立国会図書館デジタルコレクション 安永響関連資料
- 永田町人物録 アーカイブ
- 戦後内閣研究会 安永内閣特設ページ
- 帝都大学法学部 同窓会名鑑