早瀬 優香
| 氏名 | 早瀬 優香 |
|---|---|
| ふりがな | はやせ ゆうか |
| 生年月日 | 1948年3月14日 |
| 出生地 | 神奈川県横浜市中区山下町 |
| 没年月日 | 2006年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 社会学者、記録編集家、都市観測家 |
| 活動期間 | 1971年 - 2006年 |
| 主な業績 | 早瀬式アーバン・メモリアル調査の確立、港湾記録分類法の整備 |
| 受賞歴 | 都市文化功労賞、関東記録学会特別賞 |
早瀬 優香(はやせ ゆうか、 - )は、日本の都市社会学者、ならびに架空環境記録運動の提唱者である。港湾記録と生活圏観測の手法を組み合わせた「早瀬式アーバン・メモリアル調査」の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
早瀬 優香は、神奈川県横浜市の都市空間を対象に、住民の記憶・通勤経路・商店街の看板文言を同一平面で扱う独自の調査法を確立した人物である。とくに末から1980年代にかけて、東京都心部の再開発が生活史をどのように断ち切るかを定量化したことで知られる[1]。
一般には社会学者として扱われることが多いが、実際には周辺で拾った領収書や古い乗船名簿を「都市の残響」として分類する編集家としての顔が強い。本人は晩年、「都市は建物ではなく、失われた貼り紙の総和である」と述べたとされるが、この発言が記録された会議録は要出典とされている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1948年、に生まれる。父・早瀬正次は港湾運送会社の検量係、母・早瀬喜代子は山手の私設図書室で司書補助をしており、幼少期の優香は帳簿の紙背に書かれた荷役番号を図形として模写して遊んだという。これが後年の分類癖の原型になったとされる[2]。
小学校時代には、の商店街で配布される包装紙を年代別に保存し、雨天時に色落ちした順で並べ替える独自の遊びを考案した。13歳のとき、の児童閲覧室で『港の記憶と地層』という無名の冊子を読み、都市の表層と記憶の関係に強い関心を抱いたという。
青年期[編集]
に早稲田大学第一文学部へ進学し、社会学を専攻した。学生時代は系統の文学サークルとの地図読解研究会を往復していたと伝えられ、そこで「同じ路地でも、午前と午後で別の社会階層が通る」という観察を得た[3]。
には、卒業論文『都市の忘却率に関する基礎研究』を提出し、新宿区の夜間バス停32か所を3か月かけて観測した。論文の末尾には、降車客が待合ベンチに残す体温差を「微小な公共財」と呼ぶ一節があり、指導教員のからは高く評価された一方で、測定法の再現性については疑問も出たとされる。
人物[編集]
優香は、他者の証言をそのまま信じず、必ず現場の空気・匂い・掲示の剥がれ具合まで確認する性格であったとされる。会議では寡黙であったが、いったん話し始めると、品川区のバス停の金属音と横浜市の潮風の違いを30分以上比較し続けたという[6]。
逸話として有名なのは、の調査旅行での私鉄駅に降り立った際、駅舎の時刻表より先に「ベンチの座り心地」を測定し、調査ノートに「待ち時間の体感は座面硬度に支配される」と書き残した件である。また、書類の綴じ方に極端なこだわりがあり、左綴じ・穴あき・折返しの3条件を満たさない資料は「まだ記憶になっていない」として棚に戻していた。
業績・作品[編集]
代表作に『』(1974年)、『港湾記録の分類と感情残差』()、『看板の文法と再開発』()などがある。いずれも学術書でありながら、本文中に商店の閉店理由や定食屋のメニュー変遷が細かく記され、研究者よりも記録保存団体に重宝された[7]。
とくに『港湾記録の分類と感情残差』では、・・を比較し、港の活況は貨物量よりも「呼び出し放送の語尾の伸び」に相関すると主張した。この仮説は1991年ので激しい議論を呼び、若手研究者の一部は「測定値が詩に近い」と批判したが、逆に一般読者の支持を集めた。
また、映像作品との関わりもあり、NHK教育番組『まちの記憶を残す』()では監修を務めた。番組内で優香は、都電の車庫跡に残る1本のボルトを「都市の歯である」と説明し、視聴者から問い合わせが相次いだという。
後世の評価[編集]
死後、早瀬の方法論はやの基礎として再評価され、2014年には国立国会図書館の関連企画で「現場語彙の保存」が紹介された。とりわけ、再開発前の街を文字として記録する姿勢は、2011年以降の災害記録と結びつけて論じられることが多い[8]。
一方で、彼女の指標のいくつかは再現性が低いとして批判も受けた。たとえば「荷主変動指数」は、同じ港でも観測者の空腹度で数値が揺れるとされ、のまま残った項目がある。もっとも、優香自身は「都市は正確に測るものではなく、崩れ方を記録するものだ」と応じたとされ、この言い回しが彼女の名を象徴するものとなった。
系譜・家族[編集]
家系は横浜の小規模な実務家一家で、父系は明治期から港湾検量や倉庫帳簿に関わっていたとされる。母方は山手の書店に縁があり、叔母の早瀬登美はに洋書交換所で働いていたという[9]。
に編集者の早瀬俊介と結婚したが、夫婦関係については公的記録が少なく、共同で調査旅行を行ったことのみ確実視されている。子はおらず、晩年は甥の早瀬真一が資料整理を手伝った。なお、真一が優香のノートを開いた際、最初のページに「家族とは、同じ引っ越し先を三回覚えている人々である」と書かれていたという話があるが、これも要出典とされる。
脚注[編集]
[1] 『早瀬優香研究序説』都市文化学会年報、第12巻第2号、pp. 41-58。 [2] 田代晶子『横浜の記憶装置』港湾出版、1984年、pp. 17-22。 [3] 佐藤恒彦「都市の忘却率と学生運動」『社会観測』第5巻第1号、pp. 3-19。 [4] 横浜市都市生活観測研究所編『早瀬式アーバン・メモリアル調査要領』、1977年。 [5] 東京大学公開講座記録委員会『都市は読めるか』、1999年、pp. 104-109。 [6] 木村玲奈『聞き取りの周縁』青潮社、2008年、pp. 88-93。 [7] 日本社会学会編集『港湾と感情残差』、1992年、pp. 121-145。 [8] 国立国会図書館企画部『災害記録と生活語彙』、2014年、pp. 9-14。 [9] 早瀬家文書保存会『山下町の帳簿史料』、2001年、pp. 5-7。
脚注
- ^ 田代晶子『横浜の記憶装置』港湾出版, 1984年.
- ^ 佐藤恒彦「都市の忘却率と学生運動」『社会観測』Vol.5, No.1, pp. 3-19.
- ^ 木村玲奈『聞き取りの周縁』青潮社, 2008年.
- ^ 横浜市都市生活観測研究所編『早瀬式アーバン・メモリアル調査要領』, 1977年.
- ^ 中村璃子「看板の文法と再開発をめぐって」『記録学評論』第9巻第3号, pp. 77-96.
- ^ Margaret L. Hurst, “Harbor Memory and Urban Residue,” Journal of Civic Archives, Vol. 18, No. 2, pp. 201-229.
- ^ 高瀬淳一『港の呼び出し放送史』みなと書房, 1993年.
- ^ 東京大学公開講座記録委員会『都市は読めるか』, 1999年.
- ^ 國分みどり『失われた商店名の復元辞書』文化資料社, 2007年.
- ^ H. T. Lawson, “The Emotional Residual Index in Japanese Ports,” Urban Studies Review, Vol. 7, No. 4, pp. 44-67.
- ^ 早瀬優香記念館編集『地図箱の中の人びと』, 2011年.
外部リンク
- 早瀬優香アーカイブズ
- 港湾記録学会デジタル年報
- 都市生活観測研究所 追悼特集
- 横浜記憶資料センター
- 早瀬式調査法保存委員会