東野 運次 (3代目)
| 氏名 | 東野 運次 (3代目) |
|---|---|
| ふりがな | ひがしの うんじ さんだいめ |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 愛知県 |
| 没年月日 | 1984年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗交通学者、口承記録家、講演家 |
| 活動期間 | 1936年 - 1981年 |
| 主な業績 | 渡り橋式移動術の体系化、運次帳の編纂 |
| 受賞歴 | 記録賞(1967年)、特別功労章(1979年) |
東野 運次(ひがしの うんじ、 - 1984年)は、日本の民俗交通学者、口承記録家、ならびに「渡り橋式移動術」の整理者である。東野家に三代続く「運次」を継いだ人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
東野 運次は、昭和期に活動した日本の民俗交通学者である。とくに各地の渡船場、坂道、橋梁の通り方を「運次」と呼ぶ独自の分類法を提唱し、移動に伴う心理的負荷を数値化した人物として知られる。
彼が提唱した理論は、当初は名古屋大学周辺の非公式な研究会で検討されていたが、のちに愛知県内の観光振興策と結びつき、村落の古道保存運動にまで影響したとされる。なお、本人は生前「移動は距離ではなく、難所の機嫌で決まる」と述べたという[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1912年、東野は愛知県の船大工の家に生まれる。家業は小舟の補修であったが、幼少期から橋の下を流れる風向きや潮の返りを観察する癖があり、近隣では「道の機嫌を読む子」と呼ばれていた。
東野家には代々「運次」を名乗る慣習があり、初代は明治末期に港湾荷役の手順書をまとめた半ば伝説的人物、2代目は巡回教師として島嶼部の通学路を調査した人物とされる。3代目の東野は、その家風を受け継ぎながらも、歩行と渡渉の両方を含む移動全体の再編へ関心を向けた。
青年期[編集]
、を卒業後、系の夜学講座で地理学と民俗学を学んだとされる。とくに系の口承採集法に触発され、各地の道祖神、道標、船着場の呼称を方言ごとに写し取る作業に没頭した。
には岐阜県の山村調査に参加し、険しい峠道を「一歩ごとに負債が発生する空間」と記述した小論を発表した。これが後の運次理論の原型であるとされるが、当時の原稿の一部は失われており、確認できるのは写し取り帳の断片のみである[3]。
活動期[編集]
戦後、東野は名古屋市内に「運次研究室」を設け、からにかけて各地の橋梁・渡船・跨線橋を実地調査した。調査対象は東海道本線沿線を中心に計214か所で、うち通行時に「ためらい」が一定以上観測された地点を「高運次地帯」と分類した。
には、愛知県と岐阜県の境界を流れる小規模河川での渡渉訓練を視察し、平均滞留時間を3.8秒短縮する「左足先行・視線二段階法」を提唱した。これは一部の林道整備事業に採用されたが、後年、観光客がかえって川辺で立ち止まるようになったため、地域では賛否が分かれたという。
またには、東京オリンピックの機運に便乗する形で「都市移動の不安定性」に関する講演を行い、東京都内の歩道橋設計に対する助言を求められた。東野は「上に上がった者が下りる覚悟を制度化すべきである」と述べたと伝えられるが、出典は講演録の書き込みに限られる[4]。
人物[編集]
東野は寡黙で几帳面な性格であったとされ、調査先では靴紐の結び方や橋の欄干の塗装の剥げ方まで記録した。彼のノートは1冊あたり平均412項目あり、鉛筆の濃さまで記号化されていたという。
逸話として有名なのは、岐阜県の山間部で道に迷った際、地元住民より先に「ここは旧道が二度折れているため、午後は左に寄る」と言い当てた話である。もっとも、本人はこれを否定せず、「地形は人より先に疲れる」とだけ答えたとされる。
一方で、研究会の茶飲み話ではやや奇矯な面もあった。たとえば、渡船の揺れを測るために急須へ水を入れて持ち込み、船頭に怒られたことがあるほか、線路脇の雑草を「未整備の時間」と呼んで採集したことがある。
業績・作品[編集]
東野の最大の業績は、「運次」を単なる縁起ではなく、移動に伴う注意力・身体負荷・地形抵抗の総合値として定義し直した点にある。彼はこれを三層構造で整理し、、、の3分類を提示した。
代表作『運次帳』は、から1974年にかけて断続的に刊行された民間調査資料で、各地の道標の形状、渡船の待ち時間、橋の幅員、近隣住民の語尾まで記載された。とりわけ第4巻の「雨天時における靴底の説得力」という節は、後年の観光案内書に引用された一方、内容の正確性については研究者間で議論がある[5]。
ほかに、の論文「跨ぐことの倫理」では、足を大きく上げる動作が共同体内の上下関係に与える影響を論じた。これはで半ば冗談として受け取られたが、のちに学校体育の姿勢指導へ転用されたとする説もある。
また、東野は講演活動にも熱心で、、、などで年間40回前後の講演を行った。講演の最後には必ず「渡る前に、もう一度その道の機嫌を問え」と締めくくったと伝えられる。
後世の評価[編集]
東野の評価は一様ではない。民俗学の分野では、失われつつあった渡し場文化を言語化した功績が高く評価される一方、交通工学の立場からは指標の恣意性が指摘されている。
ただし1980年代後半以降、地域史ブームの中で東野の研究は再評価され、愛知県内の複数自治体では「運次散歩」と称する観光ルートが設定された。これにより旧道の案内板設置数は1991年から1998年の間に17本から63本へ増加したとされる。
また、大学の講義資料では、東野の理論は「経験則を文化資源へ変換した稀有な例」として紹介されることが多い。もっとも、学生の間では「橋を見るたびに思い出すが、試験には出ない人物」として半ば伝説化している。
系譜・家族[編集]
東野家は沿岸において半農半漁の家系として続いたとされ、代々、運送・渡船・地図作成に関わる者が多かった。初代運次は頃に港の荷札整理を行った人物、2代目は代に学校巡回路の改善を提案した人物である。
妻の東野ミツは旧の薬種商の出で、記録の清書と聞き取り補助を担った。長男の東野正一は地方銀行に勤めたが、父の影響で休日ごとに橋梁の幅を測るようになったという。孫の世代には研究継承者がいないとされるが、甥の東野清彦がの整理を続け、に未公開ノート14冊を寄贈したことで話題となった。
なお、東野家の墓石には「三代目、道を急がず」と刻まれているとされるが、これは後年の追刻であり、本人の生前には存在しなかった可能性がある。
脚注[編集]
[1] 東野家文書編纂委員会『運次帳抄録 第一巻』私家版、1961年。
[2] 田島信也「移動とためらいの民俗誌」『中京民俗研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-58.
[3] 岡部春雄『峠道採集ノート』愛知地方史資料館、1940年。
[4] 名古屋市文化局講演録編『都市の渡り方』第2巻第1号、1965年、pp. 9-17.
[5] Margaret L. Thornton, “Ethics of Crossing in Rural Japan”, Journal of Imaginary Transportation Studies, Vol. 4, No. 2, pp. 101-129.
[6] 東野運次『跨ぐことの倫理』紀要第8号、1962年、pp. 3-21.
[7] 佐伯和夫『橋梁と共同体』、1978年。
[8] R. H. Collins, “The Weather of Footsteps”, Proceedings of the Institute for Folk Mobility, Vol. 9, No. 1, pp. 1-19.
[9] 東野清彦「運次帳未公開資料の整理について」『知多文化史報』第27号、2011年、pp. 77-93.
[10] 井上澄子『渡船符牒の地域差』、1989年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 東野家文書編纂委員会『運次帳抄録 第一巻』私家版, 1961.
- ^ 田島信也「移動とためらいの民俗誌」『中京民俗研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-58.
- ^ 岡部春雄『峠道採集ノート』愛知地方史資料館, 1940.
- ^ 名古屋市文化局講演録編『都市の渡り方』第2巻第1号, 1965, pp. 9-17.
- ^ Margaret L. Thornton, “Ethics of Crossing in Rural Japan”, Journal of Imaginary Transportation Studies, Vol. 4, No. 2, pp. 101-129.
- ^ 東野運次『跨ぐことの倫理』中京民俗学会紀要第8号, 1962, pp. 3-21.
- ^ 佐伯和夫『橋梁と共同体』港出版, 1978.
- ^ R. H. Collins, “The Weather of Footsteps”, Proceedings of the Institute for Folk Mobility, Vol. 9, No. 1, pp. 1-19.
- ^ 東野清彦「運次帳未公開資料の整理について」『知多文化史報』第27号, 2011, pp. 77-93.
- ^ 井上澄子『渡船符牒の地域差』東海書房, 1989.
外部リンク
- 中京民俗資料アーカイブ
- 東野運次記念館便覧
- 運次研究会通信
- 愛知旧道保存連盟
- 日本渡り橋学会