柴田理紗子のほくろ
| 氏名 | 柴田 理紗子 |
|---|---|
| ふりがな | しばた りさこ |
| 生年月日 | 3月18日 |
| 出生地 | 東京都 |
| 没年月日 | 11月7日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗美学研究者、肖相記録家、講演家 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | ほくろ位置学の体系化、柴田式点景記述法の提唱 |
| 受賞歴 | 日本記述民俗学会特別奨励章、東京肖像文化賞 |
柴田 理紗子(しばた りさこ、 - )は、日本の民俗美学研究者、肖相記録家である。右頬の下部にあった一個のほくろを起点に、戦後日本の記憶保存運動を再定義した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
柴田理紗子は、昭和後期から平成初期にかけて活動した日本の民俗美学研究者である。一般には「柴田理紗子のほくろ」と呼ばれる右頬の下部の黒点が、その存在自体よりも記録方法の革新を先に生んだ点で特異であるとされる[1]。
彼女の名が広まったのは、に国立歴史民俗博物館の前身研究会で発表された「顔面記号の地方差に関する予備報告」である。ここで柴田は、ほくろを単なる皮膚上の色素沈着ではなく、家系・土地・記憶の重なりを可視化する「微小年譜」として扱う方法を示し、以後、肖相記録の分野に強い影響を与えたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
柴田は、東京都阿佐谷の印刷所を営む家に生まれる。父・柴田宗一は活版の見切り担当、母・柴田ミツは下宿人の帳簿を付ける人物で、幼少期の理紗子は、数字と余白の扱いに異様な関心を示したと伝えられる[3]。
小学校時代の文集には、頬のほくろを「毎朝、鏡のなかで位置が少し違って見える印」と書いた文章が残っている。なお、当時の担任がこれを作文ではなく観察記録として高く評価したことが、のちの柴田の進路に影響したという説がある。
青年期[編集]
にへ進学し、国文学を専攻した。卒業論文は『私小説における顔貌描写の反復構造』であったが、指導教員の教授が「これは文学ではなく、顔の地形図である」と評したことで、柴田は研究の方向を決定づけたとされる[4]。
、の巡検補助員として新潟県佐渡島を訪れた際、島内の年配女性たちが人物を名前ではなく「左眉の上の三角の人」と呼ぶ習慣に強い衝撃を受けた。この体験が、のちのほくろ位置学の原型になったとされる。
活動期[編集]
、柴田は神田神保町の貸会議室で「顔面標識研究会」を主宰し、約18名の参加者を集めた。発足当初は奇書会に近い扱いを受けたが、には東京都立大学の公開講座に招かれ、頬・顎・眉間・耳後部の四系統に分ける独自分類を示したことで注目された[5]。
、柴田は全国32都市で実施した聞き取り調査をまとめ、『点景の民俗誌』を刊行した。調査票には「ほくろを褒められた回数」「雨の日に濃く見えるか」など、常人には意味不明な項目が146問並んでいたが、回答率は平均81.4%に達したという。
1984年にはの特集番組『顔の中の地図』に出演し、右頬の下部のほくろを「祖母の沈黙が沈殿した地点」と説明したため、放送翌日に関連書籍が6,300部増刷された。もっとも、この表現は脚本家の加筆であるとの指摘もある[要出典]。
晩年と死去[編集]
に入ると、柴田は講演活動を減らし、長野県諏訪地方の山荘で記録整理に専念した。晩年は自らのほくろを「研究対象であると同時に、研究を終わらせないための装置」と呼び、公開発言を控えたが、月に一度だけ若手研究者向けの私塾を開いていたとされる[6]。
11月7日、心不全のため54歳で死去した。葬儀には民俗学・写真史・美容文化の関係者など約220人が参列し、祭壇には遺影のほか、拡大率40倍で印刷された右頬のほくろ写真が飾られたという。
人物[編集]
柴田は寡黙である一方、観察対象に対しては異常に細かかったとされる。喫茶店では砂糖の袋の折り目まで記録し、友人からは「人を見ているのではなく、目立つ一点を見ている」と評された。
性格は温厚であったが、学会ではしばしば強引で、発表時間が15分のところを47分使い切ることがあった。もっとも、その間に黒板へ描かれた顔の輪郭図が妙に説得力を持ち、聴衆が退席しなかったという逸話が残る。
また、柴田は「ほくろは本人のものではなく、周囲の記憶の集積である」と語ったとされる。これは後年、身体表象研究における有名な命題として引用されたが、本人のメモには「午後の眠気により誇張」とも書かれていた。
業績・作品[編集]
主な著作[編集]
代表作は『点景の民俗誌』()、『ほくろ位置学入門』()、『顔は地図である』()の三冊である。とりわけ『ほくろ位置学入門』は、頬骨線から0.8センチ以内の黒点を「近隣記憶型」、鼻翼に接するものを「通過儀礼型」と分類し、のちの美容記述に微妙な影響を及ぼした[7]。
なお、刊の『耳後部の沈黙』は当初、地方雑誌の連載だったが、表紙に印刷された柴田のほくろ写真だけが独立して切り抜かれ、古書店で「研究用しおり」として流通した。
後世の評価[編集]
以降、柴田は民俗学よりも視覚文化論の文脈で再評価されている。東京藝術大学の研究会では、彼女の方法は「身体の最小単位に社会史を読む試み」と説明され、若手研究者の卒論テーマとして定着した[9]。
また、2014年には世田谷区の小規模ギャラリーで「柴田理紗子とその周縁」という展示が行われ、来場者の約3割が作品よりもキャプションの細かさに感心したと報告されている。展示の目玉は、本人のほくろを模した直径12ミリの黒い樹脂片で、実物大の1.6倍だった。
ただし、柴田の影響力を過大評価すべきではないとする慎重論もある。とくに海外では「顔貌の一点に意味を持たせすぎる研究者」と紹介されることが多く、学術的評価はなお揺れている。
系譜・家族[編集]
柴田家は東京都に代々続く印刷・文具関係の家で、父・宗一、母・ミツのほか、弟に柴田雄二がいた。雄二はのちに建築資材商となり、姉の研究を半ば冷笑しつつも、資料整理用の木箱を毎年20箱ずつ寄贈していたという。
に柴田は民俗写真家の大沢 恒一と結婚したが、に離婚している。二人の間に子はなかったとされるが、晩年の私塾では弟子たちを「擬似家族」として扱い、門下生の約11人を便宜上「柴田家内」と呼んでいた[10]。
脚注[編集]
[1] ほくろを起点とする肖相研究の成立については諸説ある。
[2] 国立歴史民俗博物館の公開記録には該当講演の要旨が残るとされる。
[3] 幼少期の作文については家族蔵の文集による。
[4] 松永久子の講評は『東京女子大学紀要』に再録されたともいう。
[5] 参加者数18名という数字は、会費の領収書と照合可能である。
[6] 私塾の存在は出席簿が一冊のみ現存する。
[7] ほくろ位置学の分類表は、のちに美容雑誌へ流用された。
[8] 婚礼写真業界への影響は、都内写真館組合の内部資料に基づく。
[9] 東京藝術大学での再評価は、視覚文化論ゼミの配布資料に詳しい。
[10] 「柴田家内」という呼称は門下生の自称であり、公式記録では用いられていない。
脚注
- ^ 松永久子『顔貌と記憶のあいだ』東京女子大学出版会, 1979.
- ^ 柴田理紗子『点景の民俗誌』青灯社, 1978.
- ^ 黒田栄一『肖像の周縁史』勁草書房, 1982, pp. 44-71.
- ^ 大槻みどり『ほくろ位置学入門』みすず書房, 1981, pp. 9-36.
- ^ Harold P. Mercer, "Micro-Signs on the Human Face," Journal of Visual Folklore, Vol. 12, No. 3, 1985, pp. 201-229.
- ^ 柴田理紗子『耳後部の沈黙』地方文化新書, 1986.
- ^ 浅野由紀子『民俗美学の方法』岩波書店, 1991, pp. 118-147.
- ^ N. Watanabe, "The Ethics of Mole Mapping in Postwar Japan," East Asian Cultural Studies Review, Vol. 7, No. 1, 1994, pp. 55-84.
- ^ 佐伯真一『顔は地図である』河出書房新社, 1989.
- ^ Margaret L. Harlow, "A Note on the Shibata Method," Anthropology & Aesthetics Quarterly, Vol. 4, No. 2, 1998, pp. 13-29.
外部リンク
- 日本点景学会アーカイブ
- 顔面記号研究センター
- 阿佐谷記憶資料館
- 柴田理紗子記念私塾旧資料室
- 東京肖像文化協議会