過剰鈴音罪
| 正式名称 | 過剰鈴音罪 |
|---|---|
| 別名 | 鈴害罪、反響過鳴罪 |
| 分類 | 軽罪・都市騒音規制 |
| 起源 | 明治後期の寺鐘調整事件 |
| 管轄 | 内務省警保局音害対策班(後の環境衛生課) |
| 主な対象 | 鐘、鈴、ベル、呼鈴、改札音 |
| 法定上限 | 15打/分(特例地域では9打/分) |
| 初の摘発例 | 1898年・京都市東山区 |
| 廃止状況 | 現在は多くの自治体で文化規制へ移行 |
過剰鈴音罪(かじょうれいおんざい)とは、やの鳴動が一定の許容量を超えた場合に適用されるとされる、由来の特殊な軽罪である。主として・・学校で問題化し、音量そのものよりも「反復性」と「余韻の長さ」が重視されるとされている[1]。
概要[編集]
過剰鈴音罪は、音そのものを禁じるものではなく、同一の鈴音が公共空間において過度に自己反復した場合に成立するとされた法概念である。内務省の通達では「余韻が三度以上、同一方向へ折り返す場合」を基準にするとされ、実務上はしばしばとの協議で運用された。
この概念は明治末期の京都で生まれたとされるが、のちに大阪市、東京市、横浜へ拡大し、駅の発車ベルや学校の始業鈴まで対象になった。なお、当時の新聞はこれを「文明の音に対する逆流現象」と報じたとされている[2]。
成立史[編集]
寺鐘調整事件[編集]
1898年、のある寺院で、観光客誘致のために鐘を一日37回鳴らしたところ、近隣の薬問屋から「帳簿の行が震える」として苦情が寄せられたとされる。この事件を受け、京都府警察部の巡査長・が「鐘は音量よりも回数で罪になる」と記した覚書を残した、という伝承がある。
もっとも、同覚書はにで発見されたとされるが、紙質が妙に戦後製であったため、後年になって研究者の間で真偽が分かれた。とはいえ、この文書が「過剰鈴音罪」の語を一般化させたことは確かである、と多くの解説書が述べている[3]。
内務省通達第17号[編集]
、は『鈴音取締心得』を発し、ベル・呼鈴・奉安殿の風鈴にまで注意を促したとされる。通達第17号では、午前6時以前の連続鳴動を「朝礼を超える感傷的騒音」と定義し、違反者に対しては軽い過料と、必要に応じて鈴舌の交換を命じた。
この制度を実務化したのが、大阪府の技術吏員である。西村は音叉と裁縫用メジャーを組み合わせた独自の測定法を考案し、「一回の鳴動が二畳を超えて滞留した場合は過剰」と判断したという。後世の研究では、これは現在のの原型だとする説もある[4]。
法理[編集]
過剰鈴音罪の成立要件は、単なる騒音ではなく、音源が「鈴音としての自覚」を失うほどに反復することにあったとされる。法学者のは、これを「音の濫用ではなく、音の自己顕示の過多」と説明した。
一方で、適用範囲は極めて曖昧であり、寺の梵鐘、学校のチャイム、郵便配達の手鈴、さらには乳母車のベルまでもが問題視された。特にの貨物検査場では、貨車の連結ベルが波音と共鳴し、朝の30分間に8件の注意がなされたと記録されている。
代表的事例[編集]
銀座二丁目ベル連鎖事件[編集]
、銀座二丁目の洋菓子店3軒が競って開店ベルを鳴らした結果、通り全体が「祝い事のようでいて焦燥感が強い」と評され、警視庁が中立の音量に戻すよう指導した事件である。記録によれば、最も罪が重かったのはベルそのものではなく、店主が「最後の一打」を我慢できずに追加したことであった。
この事件のあと、商店街では「ベルは2打まで」という自主規制が生まれたが、実際には4打目を鳴らす店が月に2〜3軒は残ったため、摘発は完全にはなくならなかった。
札幌雪鐘事件[編集]
、札幌市の公園で冬季イルミネーションの試験点灯が行われた際、雪が音を吸わずに跳ね返すとして、装飾ベルが予想以上に広がった。結果として、周辺の住民23世帯が「鳴っていないのに鳴っている感じがする」と訴え、行政は過剰鈴音罪の準用を決定した。
この件は、気象条件と音響責任の関係をめぐる典型例として知られ、後年の資料にも引用されたとされる[5]。
奈良鹿鈴裁定[編集]
では、鹿が首輪の鈴を揺らすたびに観光客が写真を撮り、鈴音が「観光需要を自己増殖させる」として問題化した。裁定では、鹿1頭あたりの推奨鳴動回数を日中18回、夕刻6回とし、それを超える場合はエサ場の位置をずらして鈴の偏向を防ぐという、かなり実務的な措置が採られた。
もっとも、現場の飼育係は「鹿は罪を犯していないが、鈴がやや調子に乗っていた」と語ったと伝えられる。
社会的影響[編集]
過剰鈴音罪は、都市の静穏化に寄与した一方で、祝祭や宗教儀礼の表現を狭めたとして批判された。特に系の一部関係者は、年末年始の鈴祓いが「事実上の自粛対象になった」と主張したが、行政側は「鈴は可、過剰は不可」という整理を繰り返した。
また、学校では始業鈴の回数が3回から1回へ削減され、代わりに掲示板での視覚通知が増えた。この変更により、ある私立中学校では遅刻者が17%増えたとされるが、同時に「朝の精神的圧迫が減った」との保護者アンケートも残っている。
音響産業にも影響は大きく、浅草の鈴職人組合は、鈴の舌をわずかに偏心させることで「鳴りそうで鳴らない」製品を開発した。これが後の防犯ブザー市場に転用されたという説がある。
批判と論争[編集]
過剰鈴音罪をめぐっては、法の曖昧さがたびたび問題になった。とりわけ1938年のでは、「何回までなら鈴なのか」「風で鳴った場合の責任は誰にあるのか」をめぐり、質疑が3時間に及んだとされる。
また、戦後になると、がこの罪を「過度に情緒的な法制」とみなし、明確な数値基準を求めたとする記録がある。ただし、当時の会議録には鈴音が多すぎて一部の議事が聞き取れなかったという注記もあり、研究者の間では半ば伝説化している。
一部の文化史研究者は、過剰鈴音罪を通じて日本社会が「音を許す共同体」から「音を監理する共同体」へ移ったと評価する一方で、別の研究者は「単に誰かが寺の鐘に飽きただけではないか」と冷笑している。
脚注[編集]
脚注
- ^ 佐伯信彦『鈴音法制の近代化と過鳴概念』日本法制史研究会, 1978年.
- ^ 松井惣右衛門『京都東山寺鐘覚書』私家版, 1901年.
- ^ 西村一三『音叉による騒音測定の試み』大阪府土木技報 Vol.12 No.4, 1911年, pp. 44-59.
- ^ 田辺みどり『都市祭礼とベルの社会史』東京大学出版会, 1992年.
- ^ H. Rutherford, The Jurisprudence of Bell Excess in Meiji Japan, Cambridge Urban Studies Press, 2004, pp. 201-233.
- ^ 清水芳夫『過剰鈴音罪と学校鐘の抑制政策』教育制度研究 第18巻第2号, 1959年, pp. 17-31.
- ^ Margaret L. Hume, Resonance, Shame, and Civic Silence, Journal of Acoustic Governance Vol.7 No.1, 2016, pp. 1-28.
- ^ 『鈴の鳴りすぎは誰の罪か』関西法政評論 第3巻第9号, 1939年, pp. 88-102.
- ^ 高倉仁『奈良鹿鈴裁定の法的意義』奈良文化法学誌 Vol.5 No.2, 1961年, pp. 5-19.
- ^ A. C. Bellmont, Excessive Tintinnabulation and Public Order, Oxford Institute Papers Vol.4 No.2, 1988, pp. 73-91.
外部リンク
- 日本鈴音史料アーカイブ
- 京都東山近代音害研究所
- 都市チャイム法制資料室
- 過鳴事件判例集データベース
- 鈴音文化保存協会