-2点同好会
| 名称 | -2点同好会 |
|---|---|
| 設立 | 1968年頃 |
| 設立地 | 東京都千代田区神田周辺 |
| 目的 | あえて減点することで議論の質を可視化すること |
| 会員数 | 最盛期で約480人 |
| 代表的活動 | 減点講評会、-2点札配布、反省会の採点化 |
| 活動拠点 | 喫茶店、大学サークル棟、区民館 |
| 通称 | マイナス会 |
-2点同好会(マイナス2てんどうこうかい)は、発言や作品にあえて「-2点」を与えることでの再設計を試みる日本の半会員制サークルである。主に東京都の喫茶店文化圏で発展し、のちに関西の批評家や大学の演劇研究会にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
-2点同好会は、対象に対して満点主義を避け、最初から2点分の余白を差し引いて観察するという独自の批評姿勢を掲げた団体である。会員は作品、会議、料理、果ては遅延証明書にまで減点を試み、結果として「評価をめぐる評価」を生むことに成功したとされる。
一般には後半の東京で生まれた学生文化の一派とされるが、実際にはのある喫茶店で注文の取り違えが続いた結果、店主が「今日は全員-2点」と書いた伝票を配ったことが起源とされる。なお、この伝票の実物は現存しないが、写しが少なくとも3種類確認されているという。
歴史[編集]
創設期[編集]
創設者として最もよく挙げられるのは、批評家のと、早稲田大学の演劇研究会に所属していたである。三好は、学内誌への寄稿で「作品はまず2点欠けたところから始まる」と記し、これが同好会の理念の原型になったとされる[2]。
同年秋には神田の喫茶店「珈琲ロンド」にて第1回集会が開かれ、参加者12人のうち8人が「自己紹介が長すぎる」として-2点を受けたという逸話が残る。会の雰囲気は険悪ではなく、むしろ減点された者ほど得意げになる奇妙な相互承認が成立していた。
拡大期[編集]
に入ると、同好会は関西へ広がり、大阪の編集者たちが「-2点欄つき原稿用紙」を持ち込んだことで知られる。これは本文の余白に最初から二つの減点理由を書く方式で、締切遅延、語尾の甘さ、脚注の弱さなどが定型化された。
1974年には会員数が約180人に達し、月例会の議事録は一時期判で48ページに及んだ。議事録の半分以上が「本日の-2点対象」一覧であったため、編集担当はしばしば採点疲れで次回欠席となったという。
制度化と衰退[編集]
、同好会はの分科会から半ば準公認の扱いを受け、減点を学術的に整理するための「-2点基準表」を作成した。そこでは「説明過多」「熱意の先走り」「結論の曖昧な快感」などが、いずれも2点単位で処理されることになった。
しかし基準表が洗練されるほど、会の本来の雑味が失われたとの批判もあり、には自然解散状態に近づいた。もっとも、完全に消滅したわけではなく、現在でもや地方の演劇祭で「今日は-2点です」とだけ記された匿名のメモが見つかることがある。
評価体系[編集]
同好会の最大の特徴は、加点ではなく減点から議論を始める点にあった。会員は対象の長所を列挙したのち、必ず2点分だけ「惜しさ」を探し出し、そこから改善案を組み立てることを理想とした。
この方式は一見冷酷であるが、実際には「完璧でないものを持続的に愛する」ための技法として機能したとされる。とりわけ映画やの批評においては、作品の欠点を指摘することで逆に熱烈な支持が可視化された。
なお、会内では「-2点は罰ではなく、関係を続けるための会話の単位である」という解釈が有力であった。ただし、採点が厳密になると人間関係そのものが減点対象化するため、1978年頃には「友人に-2点を付けた者は翌月まで茶菓子を持参する」という内規が導入されている。
主要人物[編集]
三好孝之[編集]
は、同好会の理論面を支えた評論家である。京都出身で、戦後の文芸誌編集を経て神田に流れ着いたとされる。彼は会合の冒頭で必ず「まず2点引く」と述べ、場の緊張を和らげたという。
戸塚玲子[編集]
は、実務面での制度設計を担った人物である。の進行管理の経験から、減点は時間管理に似ていると考え、遅刻1分につき0.2点ではなく「心理的に2点」とする大胆な単位化を行った。彼女のノートには、赤鉛筆で書かれた-2点が約900件残っていたとされる。
北村一彦[編集]
は、のちに「-2点美学」を提唱した写真家である。彼は新宿の路上スナップに同好会的減点法を持ち込み、ピントの外れた写真をむしろ「良い-2点」と呼んだ。1985年の個展では、来場者が展示作品に自ら減点札を貼る方式が採られ、札が足りずに受付がコピーを10回追加したという。
社会的影響[編集]
1980年代後半には、同好会の発想が企業研修に流入し、東京都内の一部出版社や広告代理店で「先に-2点を言う会議」が試験導入された。これは失敗の予防線として一定の効果を上げたが、会議時間が平均17分延びるため、実務担当者からは不評であった。
一方で教育分野では、作文指導において「2点だけ悪いところを探す」練習法が注目され、の国語教員の間で小規模に広まったとされる。学習意欲を保ちやすいという評価がある反面、提出物に対し「あと2点は自分で取れ」とだけ返されて泣いた生徒も多かったという。
また、会の思想は関西の漫才作家にも影響を与え、「笑いの最後に2点ぶんの間を残す」という理論に転用された。ただし、この理論は公的には確認されておらず、当事者の回想録のみで語られている[3]。
批判と論争[編集]
同好会に対する批判としては、減点の基準が会員ごとに曖昧で、しばしば「芸風の違い」を「人格の-2点」と誤認する危険があったことが挙げられる。また、会の非公式ルールが増えすぎた結果、減点のための減点が発生し、議論が自己循環に陥ったとの指摘もある。
には、ある会員が「-2点は思索を促す」と発言した直後に全員から-2点を受ける事件があり、これが最も有名な内紛とされる。記録によれば、その会合では最終的に27項目が減点対象となり、議題そのものが消失したという。
ただし支持者は、こうした混乱こそが同好会の本質であり、「評価の安定は、停滞の別名である」と反論していた。実際、同好会の残した資料は整然としているものより、鉛筆で塗りつぶされた不完全なメモの方が多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三好孝之『二点を引く技法――戦後批評の周縁』新潮社, 1979.
- ^ 戸塚玲子『会議と減点のあいだ』白水社, 1984.
- ^ 北村一彦『-2点美学ノート』平凡社, 1988.
- ^ 山根昌弘「神田喫茶文化圏における自発的減点組織の形成」『社会批評研究』Vol.12, 第3号, pp. 44-61, 1991.
- ^ Margaret A. Thornton, "Subtractive Sociability and the Minus-Two Rule," Journal of Urban Folklore, Vol. 7, No. 2, pp. 113-129, 1993.
- ^ 佐伯由紀『採点の民俗誌』岩波書店, 1996.
- ^ 田所英治「演劇研究会における反省会の制度化」『大学文化論集』第18巻第1号, pp. 9-27, 2002.
- ^ A. L. Bennett, "Why Two Points? The Arithmetic of Deliberate Deficit," Cambridge Review of Cultural Systems, Vol. 4, No. 1, pp. 1-19, 2005.
- ^ 高畑真一『-2点同好会史料集』筑摩書房, 2008.
- ^ 大沢涼子「減点札の複製と流通」『民間記録学報』第9巻第4号, pp. 78-93, 2014.
外部リンク
- 神田喫茶文化アーカイブ
- 日本減点史資料室
- 批評札保存会
- 大学演劇研究ネットワーク
- 都市風俗研究フォーラム