TSF薬不妊治療
| 名称 | TSF薬不妊治療 |
|---|---|
| 別名 | 転位式生殖再編療法 |
| 分野 | 再生医療・内分泌学・家族計画 |
| 提唱者 | 桐生宗一郎 |
| 発祥 | 1968年ごろ |
| 中心地 | 東京都文京区 |
| 主な適応 | 原因不明不妊、反復着床不全、配偶者間不和 |
| 代表的施設 | 日本生殖再編学会附属 霞坂クリニック |
| 特徴 | 薬剤投与により身体性を一時的に再定義するとされる |
| 批判 | 倫理的妥当性と再現性をめぐる議論が続く |
TSF薬不妊治療(ティーエスエフやくふにんちりょう)は、との境界領域で発展したとされる、を伴う不妊治療法である。一般には東京都内の私設研究会から広まった療法として知られている[1]。
概要[編集]
TSF薬不妊治療は、を応用し、患者の身体的性属性を短期間だけ再編することで妊孕性を回復させるとされた医療技術である。名称中のは「Trans-Sexual Fertility」の略と説明されることが多いが、初期資料では「Temporary Somatic Fission」とも記されており、定義が時代によって揺れている[2]。
この療法は、通常ので成果が出なかった夫婦に対し、上の“受精適性の再配置”を行うという独特の発想を持つ。もっとも、実務上は薬剤の選定や投与順序が極めて複雑で、1970年代の時点で既に「臨床というより儀式に近い」と評されたという記録が残る[3]。
成立史[編集]
文京区試験群の発端[編集]
起源は、東京都文京区の私立病院に勤務していた内科医・桐生宗一郎が、流産を繰り返す患者に対して鎮静剤と甲状腺系薬剤を誤って併用したことにあるとされる。偶然にもその患者の月経周期が二週間ほど停止し、同時に卵巣関連数値が劇的に改善したことから、桐生はこれを「身体の性役割を一時的に反転させる処方」と解釈した[1]。
桐生は翌年、の前身である「生殖位相研究懇話会」を池袋の貸会議室で立ち上げ、参加者37名を対象に第一回の観察会を行った。参加者のうち19名が「結果が良いように見える」と回答し、残る18名は「何が起きたか分からない」と記録している。後年、この半数越えの曖昧な成功率が、TSF薬不妊治療の“科学的格調”を象徴する指標として引用された[2]。
治療法の構成[編集]
第一段階: 位相安定化[編集]
第一段階では、患者の内分泌リズムをからへと意図的にずらすことが重視された。これは“受精の窓を広げる”という説明で正当化され、実際には睡眠時間、食塩摂取量、就寝時の照明色まで細かく指定された。桐生派の資料には、青白い蛍光灯のもとでは成功率が低下するとの記述があるが、原因は不明である。
この段階の特徴は、薬理よりも生活指導の比率が高い点にあった。患者ごとに一枚の注意書きが配られたが、1991年版ではなぜか「靴下の左右を交換しないこと」という項目が追加され、医療監査で問題になった。
第二段階: 転位投薬[編集]
第二段階では、性ホルモン系薬剤を“微量で相互に打ち消す”方式が採用された。薬剤の組み合わせは全部で47通り存在するとされ、患者の誕生日と血液型、さらに「話し方の強さ」を加味して処方が変えられたという。
とりわけ有名なのが、にで行われた「第五処方群」である。これは通常のホルモン補充に加え、鉄分剤を夜に、鎮痛剤を朝に投与するという逆転配分で、担当看護師の証言によれば「患者が三日目に自分の名字の書き順を逆に覚え始めた」ことから効果判定が行われたという。
第三段階: 再配偶化[編集]
最終段階では、夫婦同席でのカウンセリングにより、互いの身体像を“治療後の配偶者像”へと再適応させる。ここでは医師よりも心理士の発言が重視され、治療の成否は「二人が同じ方向に首を傾けて説明を聞けるか」で判断されたとする資料もある。
この工程は医学というより共同体の再編に近く、治療後に離婚率が一時的に下がった一方、半年後には反動で上昇したとされる。なお、はこの現象を「適応圧の遅延」と名付けたが、批評家からは「言い換えである」と酷評された。
社会的影響[編集]
TSF薬不妊治療は、の概念に“身体の可塑性”という語を持ち込んだ点で大きな影響を与えたとされる。特にの都市部では、不妊相談と同時に「自分たちの夫婦関係を再設計したい」という要望が増え、相談件数はに年間約4,300件へ達したという[5]。
また、広告表現にも波及が見られた。化粧品会社の一部は「周期に寄り添う」「位相を整える」といった文言を使用し始め、これが医療用語の一般化を促進した。もっとも、の前身にあたる苦情処理窓口には、「鏡を見ない生活を勧める商品が多すぎる」との問い合わせが相次いだ。
一方で、地方の保守的な家庭では「薬で性役割を変えるのは家制度への挑戦だ」として強い反発が起きた。とくに新潟と岐阜では、説明会が住民の拍手と怒号で二度中断されたとされ、地元紙はこれを「静かな医療革命の失敗」と報じた。
批判と論争[編集]
批判の中心は、第一に再現性である。1980年代から2000年代初頭にかけて報告された成功率は、施設によってからまで大きく揺れ、同一患者でも担当医が変わると結果が異なると指摘された。これについて支持者は「TSFは数値ではなく関係性を測る医療である」と反論したが、学会誌ではしばしば笑いを含んだ注釈が付された。
第二に倫理面の問題がある。治療過程で患者に“性状再定義”を宣言させる方式は、自己決定権の侵害に当たるとして1998年にで審理された。審理記録によれば、弁護側証人の一人が「宣言はあくまで気合いの問題」と証言し、裁判長が沈黙したまま1分47秒間メモを取ったという。
また、TSF薬不妊治療に関する文献の一部は、著者名義が毎回異なるにもかかわらず文章の癖が一致しており、後年になって桐生宗一郎自身が3つの筆名を使い分けていた可能性が指摘された。これに対し学会側は「師弟関係の濃さによる文体の収束」と説明したが、納得した者は少なかった。
終焉と再評価[編集]
保険適用の失敗[編集]
、TSF薬不妊治療は一度適用候補に挙げられたが、提出書類に「治療中は患者ごとに鏡の枚数を調整すること」と記されていたため、審査が難航した。最終的に保険者側は、薬剤コストよりも説明責任のほうが高くつくとして、導入を見送ったとされる。
この失敗を境に、正規医療としてのTSF治療は急速に縮小し、代わって民間セミナーや自己啓発講座の形で細々と生き残った。中でも横浜のホテル会議室で行われた「第9回夫婦位相フォーラム」では、参加者82名中31名が“治療済み”と称し、残りは“予備段階”であると回答した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 桐生宗一郎『転位式生殖再編療法序説』霞坂出版, 1972年.
- ^ 水無瀬澄子「霞坂プロトコルと周期再定義」『日本生殖再編学雑誌』Vol. 8, No. 3, pp. 114-129, 1976年.
- ^ Harold P. Winthrop, 'Temporary Somatic Fission and Fertility Outcomes,' Journal of Peripheral Endocrinology, Vol. 12, No. 2, pp. 41-66, 1984.
- ^ 中野由紀子『鏡を使わない治療室』文京医療新書, 1989年.
- ^ A. K. Sutherland, 'Re-Partnering the Body: Clinical Notes from Tokyo,' Fertility and Social Medicine Review, Vol. 5, No. 1, pp. 7-23, 1991.
- ^ 日本生殖再編学会編『TSF薬不妊治療 臨床記録集 第4巻』霞坂学術社, 1996年.
- ^ 藤堂一馬「配偶化カウンセリングの実際」『臨床心理と家族』第14巻第2号, pp. 88-97, 2001年.
- ^ Margaret L. Henshaw, 'The Ethics of Pharmacological Gender Reassignment in Infertility Practice,' International Medical Ethics Quarterly, Vol. 19, No. 4, pp. 201-219, 2007.
- ^ 久世真琴『夫婦位相とその崩壊』青磁館, 2012年.
- ^ E. Nakamichi, 'A Study on Mirror Avoidance in Protocol-Based Fertility Treatment,' Tokyo Biomedical Letters, Vol. 3, No. 9, pp. 1-14, 2019.
外部リンク
- 日本生殖再編学会アーカイブ
- 霞坂クリニック旧資料室
- 国立女性医療資料館 特別展示
- 文京医療史研究会
- TSF臨床年表プロジェクト