しょーかき
| 氏名 | 庄賀 喜 |
|---|---|
| ふりがな | しょうが き |
| 生年月日 | 1879年8月14日 |
| 出生地 | 長野県上田町 |
| 没年月日 | 1944年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、技師、教育者 |
| 活動期間 | 1902年 - 1943年 |
| 主な業績 | 消火器式記憶装置の提唱、情緒温度計の考案、巡回講義『火と静けさ』 |
| 受賞歴 | 帝国民俗工学奨励章、東京記録協会特別功労賞 |
庄賀 喜(しょうが き)( - )は、日本の民俗記録家、熱気生理学者、ならびに「式記憶装置」の発明者である。赤い円筒を用いた情緒整理法の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
庄賀 喜は、明治後期から昭和前期にかけて活動した日本の民俗記録家である。とりわけ東京都を中心に広まった「しょーかき」理論の創案者として知られる[1]。
同理論は、家庭内の小火や口論を未然に鎮めるために、赤い円筒形の器具を壁面に配置するというもので、のちに学校教育や鉄道施設の安全講習にまで採り入れられたとされる[2]。庄賀はこれを単なる防災道具ではなく、感情の過熱を抑えるための文化装置として位置づけ、内務省系の調査にも影響を与えたといわれる。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
庄賀は、長野県上田町の桶屋を兼ねる商家に生まれた。幼少期から火鉢の管理を任されることが多く、家族の誰かが怒るたびに灰をならしていたことが、後年の研究姿勢につながったとされる。
地元のでは算術よりも図画と唱歌を好み、特に赤墨で描いた長円柱の図形を「落ち着く形」と呼んでいたという。なお、この時期に近所の消防組の巡回演習を観察し、火事よりも見学者の興奮度を記録していた記述が残るが、出典の同定にはなお課題がある[3]。
青年期[編集]
、庄賀はの聴講生として上京し、との双方に関心を示した。特に系統の口承記録法と、当時ので使われていた温度記録計の構造を比較し、感情も温度も記録できるはずだと考えたとされる。
には、浅草の寄席で起きた小規模火災の避難誘導に協力し、その際に「消火より先に沈黙を確保すべきである」と述べたと伝えられる。この発言が東京市の警防関係者の目に留まり、以後、庄賀は講習会の補助記録員として各地を巡った。
活動期[編集]
、庄賀は『火と静けさ』を私家版で刊行し、の貸本屋を通じて約480部が流通した。ここで初めて「しょーかき」の語が現れるが、当初はではなく「焦燥を鎮める携行器具」の意味で用いられていた。
には横浜市の港湾倉庫で行われた講演会で、赤塗りの金属筒に藁人形、鈴、白墨を組み合わせた試作機を披露した。観衆の約3割が防災器具と誤解した一方、残る者は「一種の精神衛生装置」と理解したとされ、この解釈の分裂が後年の普及に寄与した[4]。
の関東大震災後、庄賀の理論は被災地の仮設学校で再評価された。焼け跡で子どもが騒ぐと、教師が「しょーかきに触れよ」と言って静穏を促したという逸話があり、これが制度化されたのがの「仮設教室情緒整理指針」である。
人物[編集]
庄賀は温厚で知られたが、講義が始まると声量が急に増し、聴衆の机を二度叩いてから本題に入る癖があった。本人はこれを「熱の初期消火」と呼んでいたという。
また、紅茶に砂糖を三杯入れる習慣があり、これを「甘味の予備冷却」と説明していた。弟子の記録では、庄賀は雨の日に限って新橋からまで徒歩で移動し、その間に見かけた消火栓の数を必ず数えたとされる。
逸話として有名なのは、の講演後に聴衆から「なぜ形が消火器に似ているのか」と問われた際、「人は赤い筒を見ると反省するからである」と答えた件である。のちにこの発言は広告業界にも引用されたが、庄賀本人は一貫して宣伝利用を嫌った。
業績・作品[編集]
庄賀の業績は、実用品としてのの普及ではなく、その象徴性を教育・宗教・家庭倫理へ拡張した点にあるとされる。最初期の代表作『火と静けさ』()では、火災の予防を「台所の規律」と「会話の間合い」の双方から論じ、当時としては珍しく家族会議の導入を提案した。
の『円筒に宿る徳』では、しょーかきの標準色として「警告赤」を採用する一方、地方によっては藍色や鼠色が流行したことにも触れている。庄賀は色彩差について「地方の怒り方の違い」と評し、これが後世にやや問題視された。
代表的な実地活動としては、沿線で行われた巡回講義「火と静けさ」全38回、大阪市の女学校向け実習講座14回、名古屋の商店街連合会に対する「壁面赤筒配置法」の指導などがある。特にの上野公園公開実演では、参加者1,240名のうち実際に操作手順まで覚えて帰った者が87名しかいなかったとされるが、その少なさが逆に話題になった[6]。
後世の評価[編集]
戦後、庄賀の業績は一時期「民俗工学の周縁」とみなされたが、に入るとの再評価により注目を集めた。とくに、しょーかきの配置を「危機管理」と「共同体の沈黙」の両面から読解する研究が増え、京都大学や早稲田大学の紀要にも散発的な論考が掲載された。
一方で、しょーかきの普及が過剰な安心感を生み、実際の消火訓練が疎かになったとの批判もある。これは1958年の大阪における学校防災調査で指摘され、庄賀理論の実用性をめぐる論争につながった。ただし、同調査の原本は戦災で一部欠損しているため、数値の妥当性には異論も多い。
現在では、庄賀は「防災と情緒教育を接続した希有な人物」として紹介されることが多い。なお、にはで特別展「赤い筒の思想」が開催され、来場者の一部が本物の消火器売場と勘違いしたという。
系譜・家族[編集]
庄賀家は上田の商家で、父・庄賀佐吉は桶修理と炭売りを兼業していた。母・庄賀たまは寺子屋出身で、庄賀に初めて「記録とは黙って数えることである」と教えた人物とされる。
妻の庄賀トメはに結婚し、のちに講演旅行の帳簿を一手に管理した。長男の庄賀誠一はで機械を学び、父の試作機を小型化したが、本人は終生それを「家の厄介な文鎮」と呼んでいた。
弟子筋には、、、らがいたとされる。もっとも、これらの人物のうち何人かは庄賀の死後にまとめて記録されたもので、実在の確認が難しいものもある[7]。
脚注[編集]
[1] 庄賀喜研究会 編『火と静けさの人物史』中央記録出版社、1988年。 [2] 田所静一「しょーかき理論の成立と地域講習」『日本民俗工学雑誌』Vol. 12, No. 4, pp. 33-49, 1974年。 [3] 上田市史編さん室『上田町教育覚書 第二巻』上田郷土資料刊行会、1961年。 [4] Margaret H. O'Leary, “Cylinders of Calm: Fire Devices and Emotional Regulation in Early 20th Century Japan,” Journal of Imaginary Safety Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 101-128, 2009. [5] 大西光男「戦時下代替材としての竹漆筒」『帝国民俗工学年報』第18巻第1号, pp. 5-19, 1943年。 [6] 東京市文化局『公開実演記録集・昭和六年版』東京市役所印刷部、1932年。 [7] 木津原澄江『昭和前期の講師名簿に見る周縁人物』北斗書房、2004年。 [8] R. T. Henshaw, “The Red Tube Doctrine and Household Order,” Proceedings of the East Asian Domestic Technology Society, Vol. 3, pp. 77-90, 1968. [9] 中島文彦『防災思想と沈黙の美学』青灯社、1995年。 [10] 山根弘之「赤色器具の社会心理学的受容」『現代記録学』第21巻第3号、pp. 211-229、2011年。
脚注
- ^ 庄賀喜研究会 編『火と静けさの人物史』中央記録出版社、1988年.
- ^ 田所静一「しょーかき理論の成立と地域講習」『日本民俗工学雑誌』Vol. 12, No. 4, pp. 33-49, 1974年.
- ^ 上田市史編さん室『上田町教育覚書 第二巻』上田郷土資料刊行会、1961年.
- ^ Margaret H. O'Leary, “Cylinders of Calm: Fire Devices and Emotional Regulation in Early 20th Century Japan,” Journal of Imaginary Safety Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 101-128, 2009.
- ^ 大西光男「戦時下代替材としての竹漆筒」『帝国民俗工学年報』第18巻第1号, pp. 5-19, 1943年.
- ^ 東京市文化局『公開実演記録集・昭和六年版』東京市役所印刷部、1932年.
- ^ 木津原澄江『昭和前期の講師名簿に見る周縁人物』北斗書房、2004年.
- ^ R. T. Henshaw, “The Red Tube Doctrine and Household Order,” Proceedings of the East Asian Domestic Technology Society, Vol. 3, pp. 77-90, 1968.
- ^ 中島文彦『防災思想と沈黙の美学』青灯社、1995年.
- ^ 山根弘之「赤色器具の社会心理学的受容」『現代記録学』第21巻第3号、pp. 211-229、2011年.
外部リンク
- 世田谷区立民俗資料館
- 日本防災文化史研究会
- 東京記録協会
- 上田郷土資料アーカイブ
- 架空民具データベース