ねするんだ
| 名称 | ねするんだ |
|---|---|
| 別名 | 就寝宣言、入眠前息止め |
| 起源 | 1920年代の東京下町 |
| 分類 | 礼法・民間療法・都市習俗 |
| 主な実践地域 | 関東地方、北陸の一部、瀬戸内沿岸 |
| 関連組織 | 睡眠作法研究会、旧厚生省生活衛生局 |
| 伝承媒体 | 町内回覧板、稽古帳、ラジオ講座 |
| 特徴 | 息を吸ってから小声で宣言する |
ねするんだは、日本のおよびに見られる、就寝前に一度だけ大きく息を吸い、周囲へ「休む意志」を宣言してから眠りに入るための所作である。大正末期に東京府の貸間文化の中で体系化されたとされ、のちに厚生省の睡眠改善啓発事業に取り込まれたと伝えられる[1]。
概要[編集]
ねするんだは、就寝の直前に行う短い宣言動作であり、単なる掛け声ではなく、眠気の波を自分の意思で受け止めるための儀礼として理解されている。一般には、畳や布団のある室内で、肩幅ほど足を開き、胸の前で手を重ねて一息吸い、「ねするんだ」と低く発声してから横になる手順が標準形とされる[2]。
この所作は、大正13年の東京の貸間雑誌『寝具と暮し』に初出があるとされるが、実際にはの仕立屋で働く職人たちの間にあった「寝返り前に気分を整える口癖」が編集され、礼法化されたものだという説が有力である。なお、地方では「ねすらい」「ね入れの声」とも呼ばれ、名称の揺れがそのまま伝播の足跡になっていると指摘されている。
用法[編集]
標準的な用法では、宣言のあとに灯りを半分落とし、寝具の端を一度だけ整える。江戸川区の一部では、家族に対しても同時に「本日はねするんだ」と告げる慣行があり、これが共同生活における就寝の合図として機能したとされる[3]。
変種[編集]
北陸沿岸では、冬季に息が白く見えることから、宣言の最中に袖口へ息を当てる「袖ねするんだ」が発達した。これが後に学校の保健教材に採用され、児童の整列と就寝準備を兼ねる奇妙な指導法として知られるようになった。
歴史[編集]
起源については諸説あるが、最も広く流通しているのは、にの前身である「夜具改良懇話会」の事務局員、が、下町の入眠儀礼を調査する過程で記録したという説である。石丸は当初これを単なる俗語と見なしたが、のちに「言葉によって睡眠の開始を可視化できる」と主張し、には私家版の小冊子『ねするんだ式安眠法』を刷ったと伝えられる。
昭和初期には、神奈川県の温泉旅館が宿泊客向けに「ねするんだ札」を配布し、札の表に「本日もよくねするんだ」と記したところ、宿泊者の満足度が上昇したという調査結果が残る。ただし、この数値は後年の再集計でに修正されており、計測方法が朝食の米の残量だったためではないかとする批判もある[4]。
戦後になると厚生省生活衛生局が「家庭の睡眠衛生」キャンペーンを始め、のポスター『夜はねするんだ』が東京都台東区の公衆浴場に大量掲示された。ここで初めて、ねするんだは民間の口癖から「国民的な入眠儀礼」へと昇格したとされる。なお、当時のポスターには眠気を示すために異様に大きい月が描かれ、編集部が誤ってを三つ重ねた版が回収されたという逸話がある。
制度化[編集]
には文部省の研究委託を受けたが、全国を対象に「就寝前発声行動調査」を実施した。ここで「ねするんだ」を実践する家庭は、実践しない家庭に比べて就寝時刻のばらつきが短いとされたが、同研究所の報告書末尾には「子どもが先に寝落ちした場合を含む」とあり、解釈をめぐって議論が続いている。
衰退と再流行[編集]
に入ると、団地生活の普及とテレビ視聴時間の増加により実践率は低下した。しかし1998年、大阪の健康番組『眠りの科学室』が「寝る前に言葉を置く」というテーマでねするんだを紹介すると、若年層の間で逆輸入的に再流行した。番組スポンサーの枕メーカーが、放送翌週に売上を記録したことも再評価を後押しした。
作法と実践[編集]
ねするんだの実践は、単純な発声に見えて細かな作法が多い。第一に、語尾の「だ」を強く落とすと気合いが入りすぎるため、熟練者は息を抜きながら弱く終える。第二に、相手に向ける場合は正面からではなく、やや斜め右に身体を傾けることが推奨されるとされ、これは布団の陰影が最も落ち着いて見える角度だからだという[5]。
また、石川県の一部の家庭では、ねするんだの直後に茶碗を伏せることで「明日の胃袋を休ませる」意味を付与している。これに対し福岡県では、就寝の前に障子を半分だけ開け、外気に向かって小声でねするんだを言う「外向け型」が知られる。いずれも地域差というより、狭い住環境に対応した生活の工夫として理解されている。
一方で、過度に厳格な実践は家庭内の緊張を生むとして批判もある。とくにの『家庭睡眠白書』は、ねするんだを「気合いの儀式」に変質させた結果、子どもが眠る前に自己申告書を書かされる事例を確認したとして、教育的には不適切と結論づけている。
学校教育への導入[編集]
1974年からの一部小学校で「保健の時間の入眠練習」として採用され、児童が机に向かったままねするんだを唱える授業が行われた。教師用手引きには「声が大きすぎると覚醒を招く」と明記されており、この記述は後に睡眠教育の定番フレーズになった。
民間療法化[編集]
鍼灸師のはに、ねするんだを腹式呼吸と組み合わせることで寝つきが改善すると報告した。本人は「効くというより、患者が家に帰るまでに眠る理由を得る」と説明しており、この言い回しが妙に有名になった。
社会的影響[編集]
ねするんだは、都市生活における「休むことの宣言」を可視化した点で注目されている。とくにの企業社会では、残業を切り上げる言い訳として「今日はねするんだで失礼します」が使われ、柔らかい退席表現として広まったという[6]。
1980年代後半には、の生活番組で紹介されたことを契機に、睡眠前の自己管理の象徴として再解釈された。また、神戸市のある保育園では、昼寝の前に園児全員が輪になってねするんだを言うことで集団の切り替えが円滑になったとされ、見学に来た保護者が感動してそのまま入会したという逸話が残る。
このように、ねするんだは単なる寝る前の合図にとどまらず、労働、家庭、教育の各領域にまたがる生活技法として受容された。ただし、実際に全国調査で実践率を問うと「知っているがやったことはない」が常に最多であり、文化としては強いが行為としては弱い、いかにも日本的な普及を示している。
メディア露出[編集]
には民放の深夜番組『今夜もねするんだ』が放送され、視聴率は低迷したが、番組内で紹介された「枕元の一礼」がSNSで拡散した。番組が終了した後も、放送作家だけが毎晩欠かさず実践しているという。
観光資源化[編集]
長野県の温泉地では「ねするんだ体験宿」が整備され、宿帳に宣言を書き込んでから就寝する宿泊プランが人気を集めた。もっとも、実際には朝食後に記入する客が続出し、旅館側が鉛筆の濃さまで規定したため、やや本末転倒な観光商品になった。
批判と論争[編集]
ねするんだをめぐっては、早くから「過剰に規範化された睡眠作法ではないか」という批判があった。のは、の論文で、もともと気の抜けた口癖だったものが、後年の啓発運動によって「正しい眠り方」として再編されたと述べている[7]。このため、文化保存か生活統制かをめぐる論争が、現在も資料館レベルで続いている。
一方で、支持派は「ねするんだは心身の切り替えを助ける」と主張し、愛知県の公立中学校では部活動後の休息指導に取り入れられた。ところが、導入初日から野球部がベンチ前で全員一斉に宣言したため、近隣住民が消防訓練と誤認したという出来事があり、学校側は翌週から音量基準を以下に改めた。
また、にはインターネット上で「ねするんだは本当に古来からあるのか」という検証が行われ、古文書とされる画像の一部が、実は千葉県の印刷所で作られた観光用レプリカだったことが判明した。それでもなお、レプリカを見た人々が「むしろ本物らしい」と感じたため、真偽の問題は半ば文化的魅力へと転化したのである。
研究者の見解[編集]
睡眠社会史の研究者は、英訳論文『The Declarative Nap』において、ねするんだを「日本語圏における最小単位の休息宣言」と定義した。ただし、彼女の脚注には「実地調査の半数は旅館のロビーで行われた」とあり、方法論への疑義も根強い。
擬似科学化[編集]
以降、一部の健康食品業者がねするんだを「脳波を整える言霊」と称して商標的に利用しようとしたため、に類する苦情窓口へ通報が相次いだ。これにより、古い生活習俗が新しい市場に吸収される典型例としても注目されている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 石丸房吉『ねするんだ式安眠法』夜具改良懇話会, 1929年.
- ^ 黒田芳雄「就寝前発声の民俗学的研究」『日本生活文化研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1968.
- ^ 山崎由紀子『家庭睡眠白書』生活改良社, 1983年.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Declarative Nap,” Journal of Domestic Ritual Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 101-129, 2004.
- ^ 長谷川春枝「腹式呼吸とねするんだの併用効果」『東洋養生学雑誌』第21巻第4号, pp. 9-18, 1981年.
- ^ 佐伯光一『昭和の寝具と合図』青雲書房, 1991年.
- ^ 高橋みどり「都市部における休息宣言の変容」『社会生活史季報』Vol. 5, No. 1, pp. 55-63, 2011年.
- ^ 日本睡眠衛生協会編『家庭のねするんだ手引き』保健資料出版, 1955年.
- ^ Christopher Wrenford, “A History of Saying Good Night to the Body,” Sleep and Society Review, Vol. 3, No. 4, pp. 201-219, 2017年.
- ^ 木村玲子『ねするんだ入門 —夜の声と沈黙—』暮らしの科学社, 2020年.
外部リンク
- 睡眠作法研究会デジタルアーカイブ
- 下町口承文化館
- 夜具改良懇話会資料室
- 国立生活衛生史センター
- ねするんだ普及委員会