サクラマテンロー
| 名称 | サクラマテンロー |
|---|---|
| 別名 | 天蓋桜法、空桜灯、三層花見 |
| 起源 | 1908年頃(東京市臨時照明局の内部記録による) |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、E. H. メリウェザー |
| 主な用途 | 花見会場、駅前広場、博覧会の夜間装飾 |
| 主要地域 | 東京都京都府神奈川県 |
| 代表的設備 | 折り畳み式反射幕、染井式温湿計、竹骨テンロー枠 |
| 研究機関 | 帝国都市景観協会 |
| 衰退 | 昭和30年代後半以降 |
| 現在 | 一部の観光再現イベントで継承される |
サクラマテンローは、明治末期の都市照明計画とが結びついて成立したとされる、日本の夜間演出技法である。桜の開花予測と状の反射装置を組み合わせ、短い期間だけ「空に最も近い花見空間」を作るものとして知られている[1]。
概要[編集]
サクラマテンローは、桜の植栽そのものではなく、花の色と光の反射角を人工的に揃えることで、実際よりも一段高い位置に桜が浮かんで見えるよう設計された演出法である。名称の「テンロー」は、天蓋と楼閣を合わせた東京方言由来の技術語とされるが、語源については内でも異論がある[2]。
この技法は、明治後期から大正初期にかけて、各地の花見客を都市中心部に誘導するために内務省系の外郭団体が試験したものとされる。記録上は「照度を下げずに情緒を上げる」ことが目的であったが、実際には会場の滞留時間を平均17分延長させたため、商店街の売上にまで影響したとされる[3]。
成立の経緯[編集]
都市照明と花見統制[編集]
サクラマテンローの原型は、に東京市臨時照明局が上野周辺で行った「夜桜視認試験」に求められる。これは、祭礼期の人流を安全に分散する目的で、の配置と桜の枝ぶりを同時に管理する実験であったとされる。担当技師の渡辺精一郎は、桜の下に薄い銀箔を張った竹枠を置くことで、月光が花房の背後に回り込み、花が一段高く見える現象を発見したという[4]。
同年秋には、英国人顧問のE. H. メリウェザーが横浜の埠頭でこれを視察し、「Japanese canopy bloom」と仮訳したが、書簡の中で「見た目は壮麗だが、風が強いと非常に不安である」と記している。なお、当時の試験では会場ごとに風速上限が定められ、を超えると即座に幕を畳む運用であった[5]。
帝国都市景観協会の介入[編集]
、がこの技法を「桜観覧の標準化」として再整理し、反射幕の色を三段階に分類した。白は祝典用、薄桃は慰霊用、灰桃は雨天補正用とされ、各色の染料配合は極秘とされたが、後年の分析では胡粉、米糊、そして極少量の鉄錆が含まれていた可能性が指摘されている[6]。
協会はさらに、桜の開花時期を予測するためにと連携し、気温累積値がに達した時点でテンロー枠の設置を命じる制度を導入した。これにより、開花の3日前から人力車の通行量が平均22%増えたとされ、近隣の茶屋組合が最も熱心な支持者となった。
技法[編集]
サクラマテンローの基本構造は、地上1.7メートルから2.4メートルの範囲に設置される「天蓋枠」、花の背後に置く「反射幕」、そして会場中央に据える「視線誘導灯」の三層から成る。来場者は枠の下をくぐることで、通常の花見よりも視界の上部に桜が集中して見えるようになる。
技術者たちは、枝の剪定角度を、反射幕の傾斜をに保つことが最も美しいと主張したが、実地ではそこまで厳密に守られていなかったらしい。むしろ、古い記録では「子どもが幕の裏に入り込んで発見されるまでが一式である」と書かれており、当時の現場管理がかなり雑であったことがうかがえる[7]。
また、各会場には必ず「桜温度計」と呼ばれる奇妙な装置が置かれた。これは温度ではなく湿度と匂いの拡散を同時に測るもので、指標がを超えると「見上げ疲れ」が起こりやすいとして、茶菓子の提供が義務づけられた。
普及と社会的影響[編集]
大正末期には、サクラマテンローは大阪市の公園事業や京都市の寺社景観整備にも採用され、夜間観光の新たな定番となった。特に沿いでは、川面への反射を二重に利用する「水鏡式テンロー」が人気を呼び、見物客が桜より先に川の光を撮影するという現象が報告されている。
一方で、過度な演出への批判もあった。新聞『都民夜報』は4月、サクラマテンローを「花見をするのではなく、花見のための仕掛けを眺めているにすぎない」と論評したとされる。しかし商店街側は、翌年の売上が平均になったことを根拠に反論し、結果として「美観は経済に従属するのか」という、やや真面目な議論まで引き起こした[8]。
なお、関東大震災後の復興期には、瓦礫の多い広場を短期間で華やかに見せる技法として再評価され、被災地慰問の集会でも用いられた。もっとも、復興局の内部メモには「桜より先に釘を抜くべき」とあり、現場では安全対策の不備がたびたび問題になっていた。
衰退と再評価[編集]
昭和30年代に入ると、蛍光灯と高出力スピーカーの普及により、サクラマテンローは「手間のかかるわりに儲からない旧式演出」と見なされるようになった。さらに、アクリル製の人工桜や冷風機付き花壇が出現したことで、反射幕を張る職人の需要は急速に減少した。
ただし1974年に神奈川県の観光振興課が行った復元実験では、来訪者の滞在時間が通常の夜桜イベントより31分長くなる結果が得られたため、文化財的価値が見直された。現在でも台東区やの一部イベントで簡略化された形式が見られ、学術的には「近代日本の仮設美学を示す稀有な事例」として扱われている[9]。
批判と論争[編集]
サクラマテンローをめぐる最大の論争は、その起源が「市民の自発的花見文化」であったのか、それとも「行政による視線誘導政策」であったのかという点である。近年の研究では後者が有力とされるが、帝国都市景観協会の残存文書の多くがの空襲で失われたため、断定には至っていない[10]。
また、一部の文化史家からは、桜を高く見せるために枝を誘導する技術が樹木への負荷を増やしたのではないかとの指摘がある。これに対して保存会は「負荷は月に2回の剪定で十分に相殺された」と主張しているが、実際の樹勢記録には妙に空欄が多く、要出典のまま棚上げされている。
一方で、演出の中心に置かれた反射幕が、戦後は白布を節約するための再利用品として転用され、舞台美術や運動会の入退場門にまで流用された点は、サクラマテンローの「制度が生活に溶けた」象徴として評価されることもある。
脚注[編集]
[1] 仮称ではなく、当時の印刷物に複数回確認される表記とされる。 [2] 「テンロー」はの略ともの転訛とも言われるが、定説はない。 [3] 『東京夜景経済白書』版による。 [4] 渡辺精一郎の日記断片は国立公文書館の複写で確認されるとされる。 [5] メリウェザー書簡集は現存しないが、引用のみが『横浜港湾雑誌』に残る。 [6] 染料分析は東京帝国大学理化学教室の旧報告に基づく。 [7] 現場監督の回想録『竹骨とわたくし』は私家版である。 [8] 新聞記事の原本は未確認である。 [9] 復元実験は報告書第14号。 [10] 研究史の整理については要出典とされることが多い。
脚注
- ^ 渡辺精一郎『東京夜景経済白書 第一輯』東京市臨時出版局, 1913年.
- ^ E. H. Meriwether, 'Canopy Bloom and Civic Lighting in Early Tokyo', Journal of East Asian Urban Studies, Vol. 4, No. 2, pp. 118-146, 1914.
- ^ 帝国都市景観協会編『桜観覧標準規程』景観研究叢書第3巻第1号, 1912年.
- ^ 佐伯房之助『天蓋と楼閣の系譜』日本建築学会出版部, 1921年.
- ^ Martha L. Kinsley, 'Reflective Petals: Seasonal Lighting Protocols in Port Cities', Urban Ritual Review, Vol. 11, No. 1, pp. 9-33, 1928.
- ^ 『都民夜報』編集局『花見演出批評集成』都民夜報社, 1928年.
- ^ 神奈川県立都市文化研究所『サクラマテンロー復元試験報告書』第14号, 1974年.
- ^ 青木千代『近代日本の仮設美学』文化景観社, 1982年.
- ^ Hiroshi Tanemura, 'Seasonal Governance and the Management of Viewing Angles', Proceedings of the Society for Civic Aesthetics, Vol. 7, pp. 201-229, 1991.
- ^ 鈴木麟太郎『竹骨とわたくし――ある照明職人の回想』私家版, 1956年.
外部リンク
- 帝国都市景観協会アーカイブ
- 神奈川県立都市文化研究所
- 東京夜景史データベース
- 近代花見技法研究会
- 横浜港湾雑誌デジタル索引