フジヤマン(ローカルヒーロー)
| 名称 | フジヤマン |
|---|---|
| 読み | ふじやまん |
| 活動拠点 | 静岡県東部・山梨県南部 |
| 初出 | 1988年頃 |
| 主催 | 富士裾野観光連盟 特命広報班 |
| モチーフ | 富士山・合羽・登山杖 |
| 敵役 | スモッグ団、観光渋滞怪人 |
| 配色 | 赤・白・黒 |
| 公式キャッチコピー | 山を守れ、道を譲れ |
| 活動期間 | 1988年 - 1996年 |
フジヤマン(ふじやまん、英: Fujiyaman)は、を中心に活動したとされるである。富士山麓の観光公害対策と山岳信仰の再生を目的として誕生したとされ、昭和末期から平成初期にかけて一部地域で熱狂的に支持された[1]。
概要[編集]
フジヤマンは、富士山周辺の観光振興と環境啓発を兼ねて編成されたとされる地域密着型のである。表向きは子ども向けの防災教育キャラクターであったが、実際には週末の観光渋滞を分散させるための広報装置として設計されたという説が有力である[2]。
初期の活動は、、富士吉田市の三市をまたいで行われ、イベント出演のたびに「山頂に向かう車列を20分遅らせた」と記録された資料が残る。なお、この数字は後年の市議会答弁と観光協会の報告書で微妙に異なっており、研究者のあいだでしばしば議論の対象となっている[3]。
誕生の経緯[編集]
フジヤマンの起源は、にとの観光担当者が参加した「富士山麓滞留時間改善協議」に求められるとされる。そこで出身の広報技師・渡辺精一郎が、山岳信仰の霊威を損なわずに交通誘導を行う手段として、着ぐるみと演武を組み合わせた案を提出した[1]。
当初は「フジサン・ナビゲーター」と呼ばれていたが、当時の企画会議で「硬すぎる」「観光バス会社の広告に見える」として却下され、地元の児童劇団出身者が書いたメモの誤記からフジヤマンに定着したという。もっとも、これについては当時の議事録がの倉庫火災で焼失しており、確証はない。
初代スーツの製作はの老舗染色工房「三島屋意匠所」が担当したとされ、耐風圧試験のために相当の送風機で72時間連続稼働させた記録がある。試験担当者の回想によれば、スーツの胸部に取り付けられた小型反射板が朝日を受けて異常に眩しく、近隣の山小屋で「小さなご来光」と呼ばれたという[要出典]。
設定と装備[編集]
フジヤマンの基本装備は、山岳救助用のを改造した赤白の外套、登山杖を兼ねる伸縮式の「富士杖」、および胸部の標高計ユニットである。標高計は実際には気圧変化に応じて効果音が鳴る玩具部品を流用したもので、時にはファンファーレ、霧の日には控えめな太鼓が鳴った。
敵役としては、排気ガスを擬人化した「スモッグ団」、路上駐車を象徴する「停車怪人ドメイン」、そして観光地のゴミ箱を狙う「ポイステラー」などが設定された。いずれも当初は教育紙芝居の悪役だったが、後に商店街のスタンプラリーと接続され、合計17体まで増殖したと記録されている。
なお、フジヤマンの必殺技「逆さ富士返し」は、相手を投げる技ではなく、案内板の向きを正すだけの地味な行為である。しかしこの動作が子どもに非常に受け、平成3年の「富士宮商店街夏まつり」では、観客の83%が技名だけを復唱して帰ったとされる。
活動史[編集]
1980年代後半の巡回活動[編集]
1988年からにかけて、フジヤマンは主にの前身施設、観光案内所、簡易トイレ整備式典に登場した。とくにでは、子ども向けの「雲の上交通教室」が人気を博し、配布された反射材付き下敷きが3万2,400枚を超えたという。
一方で、出演費の計上方法をめぐり、と地元商工会のあいだで小さな摩擦が起きた。連盟側は「広報費」と主張し、商工会側は「着ぐるみ保守費」として処理したため、決算書上では同じイベントが二重に存在している[4]。
テレビ露出と過熱[編集]
1991年には地方局の情報番組『山麓ワイド』で特集され、一気に県境を越える知名度を得た。番組では、フジヤマンが富士吉田市の交差点で朝の通学児童を誘導する場面が放送され、視聴率は8.7%に達したとされる。
この露出の後、同人誌的な応援グッズが急増し、謎の「フジヤマン研究会」が東京・高円寺の喫茶店で結成された。会員の一人は、必殺技を一字一句暗記することで自治体の公共放送に採用されたと証言しており、真偽は不明である。
終息と再評価[編集]
の台風災害後、富士山麓の観光導線が変更され、フジヤマンは一時的に活動休止となった。公式には「装備の補修と演者の休養」と説明されたが、実際にはキャラクター運営の中核にいた担当者がへ異動し、誰もスーツの保管場所を把握していなかったとも言われる。
しかしに入ると、地域振興の文脈で再評価が進み、古いイベント写真や手描き看板がの郷土資料室で発見されたことを契機に、小規模な展示が行われた。展示初日には、かつての観客だったという高齢者が「昔は山がもっと返事をした」と語ったとされる。
社会的影響[編集]
フジヤマンは、観光キャンペーンと環境教育を結びつけた先駆例として評価されることがある。とくに「山を守れ、道を譲れ」という標語は、後の文化における行動規範型キャッチコピーの原型になったとする説がある[5]。
また、地元小学校の社会科副読本に「地域の安全を考える人物」として掲載されたことから、ヒーローが単なる娯楽ではなく行政広報の一部として機能しうることを示した事例ともされる。なお、当時の副読本にはフジヤマンの横顔イラストが掲載されていたが、なぜかヘルメットの上に富士山が直接載っている図版であった。
一方で、過剰な観光マナー啓発が「子ども向けにしては説教くさい」と批判されたこともある。1992年の保護者アンケートでは、満足度が78.1%であったのに対し、「技が地味」「敵があまり悪そうでない」との自由記述が42件寄せられたという。
批判と論争[編集]
最大の論争は、フジヤマンの正体が誰だったのかという点である。初代演者は在住の剣道指導員だったとする説、の広告代理店社員だったとする説、さらには側の観光課職員が兼任していたとする説まであり、資料ごとに顔立ちが微妙に異なる。
また、スーツの背中に描かれた「FUJIYAMAN」のロゴが、1989年版のみ「FUJIYA MAN」と分離していたことから、実は複数人物による合同キャラクターではないかという見方もある。地元紙『』は当時この件を短く報じたが、見出しが「山の男、字が割れる」であったため、後年ネット上でしばしば引用された。
さらに、活動の終盤に販売されたミニ人形の箱絵だけが妙にリアルで、富士山の稜線がの地形図に近いと指摘された。これは実在の山容をそのまま流用したためとされるが、制作者は「山はだいたい同じだから問題ない」と答えたという[要出典]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『富士山麓広報史と着ぐるみ行政』地域政策研究社, 1994, pp. 41-68.
- ^ 三島屋意匠所編『合羽の耐風圧試験報告書 第3版』沼津印刷, 1989, pp. 12-19.
- ^ 田中由紀子「地方ヒーローと観光導線の再編」『観光社会学紀要』Vol. 14, No. 2, 1996, pp. 77-103.
- ^ S. Watanabe, "Mascots and Mountain Ethics in Central Japan," Journal of Regional Media Studies, Vol. 8, No. 1, 2001, pp. 15-29.
- ^ 静岡県観光局 編『平成三年度 富士山麓広報物件一覧』静岡県刊, 1992, pp. 5-11.
- ^ 小林千晶『ローカルヒーロー誕生記』北窓社, 2008, pp. 88-109.
- ^ 『静岡日報』編集局「山の男、字が割れる」1990年7月14日朝刊, pp. 3-3.
- ^ Margaret A. Thornton, "Performative Safety Education in Rural Japan," Urban-Rural Interface Review, Vol. 5, No. 4, 1998, pp. 201-224.
- ^ 富士裾野観光連盟 編『決算書と着ぐるみ保管台帳』内部資料, 1995, pp. 2-7.
- ^ 高橋進一『ご当地ヒーローの系譜と奇妙な副読本』青潮書房, 2013, pp. 134-151.
外部リンク
- 静岡県郷土キャラクター資料館
- 富士裾野観光連盟アーカイブ
- 地方ヒーロー研究会デジタル年鑑
- 山麓ワイド番組資料室
- ご当地ヒーロー口伝集