明六社派閥問題及びそれに伴う政変・テロ事件
| 発生時期 | 1874年 - 1877年 |
|---|---|
| 発生地 | 東京府・大阪府・長崎県ほか |
| 原因 | 明六社内部の路線対立、演説権配分、会報掲載順をめぐる抗争 |
| 結果 | 明六社の実質解体、数名の退会、臨時改革局の設置 |
| 主要勢力 | 啓蒙派、急進儀礼派、中間調停派 |
| 死傷者 | 負傷12名、失神者31名、原稿焼失8束(推定) |
| 別名 | 明六社分裂危機、銀杏坂文筆蜂起 |
| 指導者 | 福沢系調停役・森有礼系実務派・西周系理論派(通称) |
明六社派閥問題及びそれに伴う政変・テロ事件(めいろくしゃはばつもんだいおよびそれにともなうせいへん・てろじけん)は、からにかけて東京府と大阪府を中心に発生した、との対立を契機とする連続事件である[1]。のちにとも呼ばれ、日本近代思想史における最初期の“机上の内乱”として知られている[2]。
背景[編集]
本事件は、明治維新後の東京において、知識人集団が公共言論の主導権をめぐって先鋭化したことに端を発するとされる。とりわけでは、翻訳語の選定、講演会の開始時刻、会費の端数処理をめぐり、会内に深い亀裂が生じていた。
1874年初頭、銀座の貸座敷で行われた会合で、は「文明の普及」を掲げたのに対し、は「まず形式を整えねば思想は根付かぬ」と主張した。これにより、会員の間で着席位置が固定化され、のちの対立線が可視化されたという。なお、当時の議事録には「椅子の背もたれ角度が思想傾向に与える影響」を論じた頁があり、後世の研究者を困惑させている[3]。
経緯[編集]
第一段階:会報をめぐる抗争[編集]
1875年、に相当する会報の第14号が遅配したことを契機として、派閥抗争は実力行使へ移行した。啓蒙派は編集室の鍵を確保し、急進儀礼派は印刷所前で「句読点の革命」を宣言したと伝えられる。
同年6月にはの貸会議室で、本文と脚注の比率をめぐる小競り合いが発生し、三人の編集補助が墨汁を浴びた。事件後、新聞はこれを「黒の午後」と呼び、翌日の市中では黒い手拭いが流行したという。
第二段階:政変への波及[編集]
1876年、対立は太政官周辺の若手官吏を巻き込み、いわゆるへと発展した。急進儀礼派は、討論時間を法制化するよう求めてへの請願を行ったが、これが「官庁への文書テロ」と誤認され、一時的に官邸警備が強化された。
この際、に擬せられる実務派は、双方に対し「文字数を減らさねば国家は保たれぬ」と説いたが、かえって不信を招いたとされる。なお、同年末にで発生した机椅子の破損は、のちに政変の象徴的事件として扱われた。
影響[編集]
事件後、は形式上は存続したものの、実態としては講演会・出版・会費徴収の各機能が分離し、翌年までに事実上の解体状態となった。これを受けて内務省は、学術結社に対する「会議録提出規程」を整備し、以後の民間団体は議事進行係を必ず2名置く慣行が広まった。
また、一般社会では「派閥」という語が知識人の専売ではなくなり、商家や寄席、果ては町内の盆踊り保存会にまで波及した。特に東京府下では、会議で用いる名札の色にまで気を配る風潮が生まれ、これがのちの日本的合意形成の原型になったとの指摘がある。
研究史・評価[編集]
近代史学における位置づけ[編集]
大正期の史家・渡辺精一郎は、本事件を「書斎政治が実地政治に接触した最初の衝撃」と評した。一方、昭和中期の研究では、事件の実態よりも後世の誇張が大きいとされ、硯石の飛来方向や椅子脚の損傷率をめぐる論争が続いた。
ただし、所蔵の『明六社雑件録』には、会場の座席表と負傷届が一致する箇所があり、完全な作り話とは言い切れないとする説が有力である。
政治思想史からの再評価[編集]
近年は、単なる派閥抗争ではなく、近代国家における言論空間の設計不全として読む見解が増えている。すなわち、思想の自由を掲げる一方で、発言時間と活字面積が極端に不足していたため、議論が物理的衝突へ転化したというのである。
なお、に京都大学の研究班が公表した報告では、当時の会員のうち実際に「政変」という語を使った者は7名に過ぎず、残る者はただの遅刻理由として用いていた可能性が指摘されている[5]。
年表[編集]
1874年 - 銀座会合で啓蒙派と急進儀礼派が初めて公開対立する。
1875年 - 会報遅配によりで小競り合いが発生する。
1876年 - が起こり、官庁周辺で警備が強化される。
1877年 - および長崎の灯油声明事件が連続発生する。
1878年 - が設けられ、会則が全文三分の一に短縮される。
批判と論争[編集]
事件の名称自体が後世の新聞用語であり、当事者の多くは自分たちを「討論会連合」と呼んでいた。したがって、現在の通称にはセンセーショナルな誇張が含まれるとの批判がある。
また、死傷者数についても資料ごとの差が大きく、系史料では負傷8名、会報側記録では失神者31名とされる。もっとも、この差は当時の救護班が冷水と香料を多用したことに由来する可能性があり、事件の実態よりも会場の蒸し暑さが被害を拡大したとする見方もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯宏『明六社派閥小史――書斎内乱の成立』岩波書店, 1991.
- ^ Margaret A. Thornton, "Factionalism and Ink: The Meirokusha Crisis", Journal of East Asian Intellectual History, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 41-79.
- ^ 小倉達也『近代日本における演説と投擲』吉川弘文館, 2007.
- ^ William H. Kessler, "The Politics of Lecture Halls in Meiji Tokyo", Transactions of the Pacific Historical Review, Vol. 8, No. 1, 1988, pp. 5-33.
- ^ 森下澄江『会報遅配と政変の社会学』東京大学出版会, 2013.
- ^ Henri Dubois, "The Brief Siege of the Editorial Room", Revue des Études Japonaises, Vol. 21, No. 2, 1997, pp. 112-140.
- ^ 渡辺精一郎『近代思想事件史稿』有斐閣, 1929.
- ^ 高瀬英治『硯石事件の記録とその余白』中公新書, 1984.
- ^ A. J. Miller, "On the Measurement of Collapse in Literary Societies", The Oriental Historical Quarterly, Vol. 4, No. 4, 1976, pp. 201-219.
- ^ 『明六社雑件録』国立史料編纂館叢書 第18巻第2号, 1898.
外部リンク
- 国立史料編纂館デジタル特別室
- 東京近代思想アーカイブ
- 明六社研究会年報
- 日本会議文化史資料センター
- 架空史料ネット・リポジトリ