あだ名の題名者教団
| 正式名称 | あだ名の題名者教団 |
|---|---|
| 英称 | Order of the Epithet-Namers |
| 成立 | 1926年ごろ |
| 創始者 | 渡会寛一郎 |
| 本部 | 東京市神田区駿河台(旧本部とされる) |
| 主な活動 | 命名儀礼、題名授与、俗称台帳の編纂 |
| 信徒数 | 最盛期で約4,800人 |
| 象徴 | 三重円の名札紋 |
| 現況 | 戦後に分裂し、現在は研究会扱い |
あだ名の題名者教団(あだなのだいめいしゃきょうだん、英: Order of the Epithet-Namers)は、人物・土地・事件に対して「あだ名としての題名」を付与し、その呼称を半ば公的な称号として定着させることを目的としたである。大正末期の東京で成立したとされ、のちに京都や大阪にも支部が置かれた[1]。
概要[編集]
あだ名の題名者教団は、対象に対して短く、しかし記憶に残る「あだ名の題名」を授けることで、共同体の秩序と記憶の保持を図る思想運動である。『命名と風評』の編集後記では、これを「口伝の官僚化」と呼んだ記述がある。
教団の中心教義は、真名は個人に属するが、あだ名は社会に属するというものであった。これにより、祭礼で授与された題名はよりも長く生きるとされ、実際に関東大震災後の復興地図や、浅草の興行街で広く用いられたとの指摘がある[2]。
成立史[編集]
大正命名景気[編集]
教団の起源は、の震災後に生じた仮設市場での呼称混乱に求められることが多い。創始者とされる渡会寛一郎は、当時の印刷所で校正係をしており、同じ人物が日ごとに三つ四つの呼び名で呼ばれる光景を見て、「呼ばれ方を統一しなければ都市は記憶を失う」と着想したという。
渡会は春、東京市内の貸座敷を借りて最初の授与式を行ったとされる。このとき付与された題名は、八百屋の男に「紙風船の父」、路地裏の踊り子に「赤灯の小禽」などで、いずれも本人の同意書に相当する紙片が残されているが、筆跡がすべて同一であるため、後年の研究者はしばしば首をかしげている[3]。
教義の整備[編集]
には教団機関誌『題名録』が創刊され、題名の作法が三十二条に整理された。第一条は「二音節を過ぎるべからず」、第七条は「動物名を借りる場合、必ず色彩を添えるべし」であり、これにより題名はやけに詩的かつ実用的なものになった。
また、教団は帝国大学の言語学講座から招かれたと称する外部顧問・佐伯澄夫を置いたが、佐伯の実在性については一次史料が乏しく、むしろ複数の編集者が都合よく合成した人物ではないかとも言われる。ただし、彼が作ったとされる「題名は名刺である」という定義は、後の都市俗語研究に大きな影響を与えた。
儀礼と制度[編集]
教団の儀礼は、の水を一滴だけ印肉に混ぜ、対象者の額に題名札を押すところから始まる。これを「初呼び」と呼び、成功すると周囲の者が三度だけ新しい呼称でその人物を呼ぶ。以後、その呼称が定着した場合、教団は「題名成就」と判定した。
制度面では、題名は役職・職業・性格のいずれかを反映することが求められた。たとえば、巡査には「笛の影」、煙草屋には「灰色の菓子」、市役所職員には「午前の机」などが授与されたという。これらは一見ふざけているが、実際には職能の輪郭を鋭く切り取るとして一部の新聞記者に好評であった。
教団には「題名保留箱」と呼ばれる木箱があり、命名に失敗した案件が年に一度そこへ収められた。箱の中には、無難すぎて誰にも定着しなかった「青い人」や、逆に強すぎて行政から使用停止を求められた「火の課長」などが残されていたと伝えられる。
社会的影響[編集]
大衆文化への浸透[編集]
昭和初期のでは、観客が登場人物に勝手な題名を付けて楽しむ風習が広がり、配給会社が抗議文を出したことがある。教団はこれを逆手に取り、上映前の短い儀礼を行うことで「観客の集中力が12分伸びる」と宣伝した。
また、大阪の寄席では、芸人が舞台上で即興の題名を授与される「即題」が流行し、若手が売れるとすぐ「夜汽車の耳」や「柿色の骨」などの名前で覚えられた。観客の側もそれを半ば公認し、口伝のネットワークが形成されたとされる。
行政との摩擦[編集]
一方で、教団の活動は内務省系の文書整理官から強い警戒を受けた。特に、帳簿に本名ではなく題名を書き込む信徒が続出したため、には「俗称の過度な公文書使用を控えるように」とする通達が出たという。
もっとも、通達は完全には徹底されず、戦時下の配給所で「米一升を取りに来た“栗鼠帽の男”」のような記録が残ったとされる。これらの記録は現在、地方史研究の珍資料として引用されることがあるが、原本の所在は不明である。
主要な題名者[編集]
教団史において特に知られる題名者としては、渡会寛一郎のほか、初代題名監修者の、関西支部をまとめたとされる、そして「街角の命名師」と呼ばれたが挙げられる。
柏木リツは、神田の下宿で毎晩ちがう題名案を百本ずつ書き、最終的に「短いほど強い」という原則を確立した人物であるとされる。三宅信次郎は京都の祇園で芸妓に対する題名授与を行い、のちに「名を借りるのではなく、呼び声を整えるのだ」と語ったという。小松こよみについては、横浜港で外国人船員に日本語題名を配り歩いた逸話が有名であるが、本人が英語をほとんど話せなかったため、実際には身振りで授与していたらしい。
批判と論争[編集]
教団には、題名が社会的階層を固定化するとの批判も存在した。とくに、権威ある人物に過剰に美しい題名が与えられ、下層の者には呼びやすいだけの短い題名が配られたため、暗黙の差別ではないかとする議論があった。
また、の分派騒動では、旧派が「題名は一度授かったら改称してはならない」と主張したのに対し、新派は「人は三度まで名前を持ち替えられる」と反論した。新派の指導者・は、自身の題名を一晩で九回変えたとして知られ、ついには会員名簿が追いつかなくなったという。
このほか、教団が地方自治体の祭りに介入し、山車の名札まで統一しようとした件は「命名過多事件」と呼ばれ、NHKの地域ニュースで短く扱われたとされる。
衰退と再評価[編集]
戦後、教団は急速に解体したが、題名台帳の多くは古書店や喫茶店の奥から散逸した。特に神保町の古書街では、題名札だけが束になって発見されることがあり、研究者はそれを「札の漂流」と呼んでいる。
以降になると、都市民俗学の対象として再評価が進み、早稲田大学周辺のゼミで断片的に研究が続けられた。題名文化がSNS以前の自己演出として機能していたことから、現代のネット文化との比較研究も盛んであるが、題名の字数と拡散力の相関を示した論文の一部には、統計処理がやや荒いものがある[5]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡会寛一郎『題名録第一巻』あだ名の題名者教団出版部, 1932年.
- ^ 佐伯澄夫『都市の呼称と共同体』帝都言語学会, 1934年.
- ^ 柏木リツ『短名美学序説』銀座文化書房, 1937年.
- ^ 小松こよみ「港湾における即題の実態」『民俗と呼称』Vol. 12, No. 3, pp. 44-61, 1941年.
- ^ 三宅信次郎『祇園題名紀行』京都風俗研究社, 1948年.
- ^ 堂本珠彦『改称九遍記』新潮社, 1953年.
- ^ 高橋園子「命名儀礼の社会的機能」『日本都市民俗学会誌』第8巻第2号, pp. 101-128, 1976年.
- ^ Margaret H. Lowell, Epithet and Authority in Prewar Tokyo, University of Pacific Press, 1981.
- ^ 井上光男『あだ名の政治学』青土社, 1992年.
- ^ Christopher W. Bell, The Social Life of Nicknames, Vol. 4, Issue 1, pp. 9-37, 2007.
- ^ 吉岡みどり『呼ばれ方の近代史』岩波書店, 2015年.
- ^ 佐久間礼二「題名保留箱の分類学」『風俗資料研究』第19巻第4号, pp. 201-219, 2020年.
外部リンク
- 命名文化アーカイブ
- 題名録デジタル館
- 東京都市俗語研究所
- 日本呼称民俗資料室
- 旧教団台帳閲覧室