千主 荵練
| 氏名 | 千主 荵練 |
|---|---|
| ふりがな | ちぬし ににれ |
| 生年月日 | 1874年9月18日 |
| 出生地 | 新潟県相川町字鷹ノ尾 |
| 没年月日 | 1946年2月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間伝承採集家、器具設計者、仮説民俗学者 |
| 活動期間 | 1896年 - 1944年 |
| 主な業績 | 「反復語音採集法」の確立、千主式口承記譜板の考案、地方句法分類表の作成 |
| 受賞歴 | 帝国学芸院準賞、特別功労章 |
千主 荵練(ちぬし ににれ、 - )は、日本の民間伝承採集家、器具設計者、仮説民俗学者である。地方句法の記録と「逆唱しりとり」研究の先駆者として広く知られる[1]。
概要[編集]
千主 荵練は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の民間伝承採集家である。とくに、各地の古老が反復して口にする音列を採集し、そこから土地の気候・交易・信仰を読み解くという独自の方法論を提唱したことで知られる[1]。
彼の名は、のちに「ちぬしににれ」という不可解な音の連なりと結び付けられ、いわゆる口承の誤聴現象を体系化した人物として評価された。もっとも、荵練本人は生涯を通じてこの語を「記憶の針金」と呼び、特定の意味を与えることを避けていたとされる。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
荵練は新潟県の佐渡島西岸に近い山間集落に生まれた。家は代々、塩蝋と網具の修繕を生業としており、幼少期から破れた布やひも結びの癖を観察する習慣があったという。近隣の寺子屋では算術よりも往来の口上を好み、には村の年寄りから「音を紙に留める子」と呼ばれていた[2]。
青年期[編集]
東京へ出て帝国大学の聴講生となったのはである。正式な籍はなかったが、系の講義との夜学会に出入りし、方言採集家のに師事したとされる。三浦は荵練に対し、意味を追うより先に反復を数えよと教えたといい、この助言が後年の「反復語音採集法」につながった[3]。
活動期[編集]
、荵練は長野県と富山県の山村で、炉端話の中に現れる謎の語尾「ににれ」を記録しはじめた。彼はこれを単なる聞き間違いではなく、季節移動・婚姻圏・塩の流通が重なる地点で発生する音響の結節だと解釈した。この見立ては当初、で笑いを誘ったが、に提出した『地方句法雑録』が半ば奇書として注目され、以後は地方紙の常連寄稿者になった[4]。
には仙台の講演会で、竹札と煤紙を組み合わせた「千主式口承記譜板」を公開した。これは発話の抑揚を墨のにじみで記録する装置で、会場で試したところ、最前列の学生7名のうち4名が同じ語を異なる形で聞き取ったという。荵練はこれを「集団聴取のばらつき」と呼び、後に要出典とされたが、同時代資料には類似の記述が残る。
人物[編集]
荵練は寡黙であったが、沈黙そのものを分析対象として扱う癖があった。喫茶店では必ず隣席の会話を背中で聴き、会話が途切れる瞬間の長さを懐中時計で測ったという。
性格は几帳面で、旅先では蚊帳の結び目の数まで記録した。いっぽうで、記録帳の余白に「音は意味より先に老いる」といった詩的な書き込みを残しており、弟子からは学者というより職人に近い人物とみなされていた。
逸話として有名なのは、に京都の料亭で開かれた懇談会で、献立の吸い物を聞き間違えたまま「本日の主題は『ちぬしににれ』である」と宣言し、場を静まり返らせた件である。本人は後年、「誤聴こそ地方差の入口である」と弁明したが、同席者の証言は一様ではない[6]。
業績・作品[編集]
反復語音採集法[編集]
荵練の代表的業績は、同一の語を最低3回、異なる話者に復唱させ、発音の揺れを表層語・裏層語・持続層に分けて採集する手法である。彼はこれにより、青森県からまでの約420地点で、音素の崩れ方に一定の地理的傾向があると主張した。もっとも、後年の研究では彼の分類がやや恣意的であることも指摘されている。
千主式口承記譜板[編集]
に考案された木製の記譜板で、表面に煤紙、裏面に蜜蝋膜を重ね、話者の声圧で微細な線が残る仕組みであった。荵練はこれを神奈川県鎌倉の古民家で改良し、1枚あたり約37分の会話を保存できると記している。現在残る実物は2点のみで、いずれも湿気により一部が読み取れない。
主な著作[編集]
著作としては『地方句法雑録』、『音の返礼』、『佐渡口承地図』が知られる。とくに『音の返礼』は、にから刊行され、初版1,200部のうち約860部が公共図書館に配布されたとされる。なお、同書の索引には「ににれ」「ぬしち」「しぬれ」など、互いに似た語が独立項目として立てられており、校正担当者を困惑させたという。
後世の評価[編集]
戦後、荵練は一時期「地方趣味の偏奇人」として忘れられたが、以降、音声民族誌や口承メディア研究の文脈で再評価が進んだ。東京外国語大学の佐伯みどりは、彼の方法を「意味以前の共同体を可視化する試み」と位置づけている[7]。
一方で、彼の理論は統計的な裏付けに乏しく、北海道大学の調査班からは「観察の鋭さと結論の飛躍が同居する」と批判された。とくに「ちぬしににれ」を航路標識の残響だとする晩年の説は、現在でも支持者が少ない。ただし、その荒唐無稽さ自体が後代の研究者に引用され、会話のズレや聞き取りの失敗を論じる際の定番例になっている。
では現在も彼の生家跡に小さな案内板が立ち、年に1度「荵練忌」と呼ばれる朗読会が開かれる。参加者は必ず3回同じ文を読み上げる慣習があり、最後の一回だけ誰も原文を見ないことになっている。
系譜・家族[編集]
荵練の父・千主藤右衛門は網具商、母・りくはの出身とされる。妻はに結婚した黒岩ハルで、紙細工と帳簿づけに長けていた。二人の間には長男・千主一也、長女・千主澄子が生まれ、いずれも父の研究を手伝ったが、家業を継いだのは甥の千主良造であった[8]。
弟子としては前述の黒沢タエのほか、大阪の出版人・村瀬孝平、名古屋の教師・石原ミナが知られる。彼らは荵練の死後、断片ノートをまとめて『荵練遺稿集』全3巻を刊行したが、第2巻だけが異様に方言索引へ偏っており、編者の趣味が反映されているとの指摘がある。
脚注[編集]
脚注
- ^ 佐伯みどり『口承の残響と地方句法』岩波書店, 1978年, pp. 44-79.
- ^ 黒沢タエ『千主荵練遺稿抄』東洋文庫刊行会, 1952年, pp. 11-38.
- ^ Marjorie K. Haldane, “Phonetic Drift in Inland Narratives,” Journal of Ethnographic Acoustics, Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 201-233.
- ^ 村瀬孝平『音の返礼 注解版』帝国書房, 1931年, pp. 5-64.
- ^ 石原ミナ『佐渡口承地図とその周辺』北辰社, 1961年, pp. 88-117.
- ^ Henry T. Bell, “Mnemonic Slips and Community Hearing,” Bulletin of the Folklore Society, Vol. 9, No. 2, 1936, pp. 55-73.
- ^ 渡辺精一郎『反復語音採集法概論』【東京】民俗資料館叢書, 1948年, pp. 13-52.
- ^ 小林さやか『ちぬしににれ考——聞き違いの民俗学』新泉社, 1999年, pp. 101-146.
- ^ Eleanor V. Pike, “On the Cabinet of Echoed Speech,” Proceedings of the Royal Anthropological Institute, Vol. 27, No. 1, 1909, pp. 9-28.
- ^ 『地方句法雑録』校訂版序文「語は土地を歩く」, 1929年, pp. i-xii.
外部リンク
- 国立口承資料アーカイブ
- 佐渡方言研究会
- 仮想民俗学会デジタル年報
- 千主荵練記念館(準備室)
- 地方句法データベース