スーパー山本耕史53世
| 氏名 | 山本 耕史 |
|---|---|
| ふりがな | やまもと こうじ |
| 生年月日 | 1953年4月18日 |
| 出生地 | 東京都墨田区 |
| 没年月日 | 2014年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 演出家、称号設計家、講演家 |
| 活動期間 | 1976年 - 2014年 |
| 主な業績 | 「スーパー称号」階梯の整備、53世襲号の確立 |
| 受賞歴 | 日本舞台構造学会特別奨励賞(1998年)、東京都文化調整功労章(2007年) |
山本 耕史(やまもと こうじ、 - 2014年)は、日本の即興演出家、通称系譜学研究者、ならびに「スーパー称号」制度の実務設計者である。後年は「スーパー山本耕史53世」として広く知られる[1]。
概要[編集]
山本 耕史は、東京都墨田区に生まれた日本の演出家である。舞台進行に世襲制の用語体系を持ち込んだことで知られ、のちに「スーパー山本耕史53世」という半ば称号、半ば役職のような名義で呼ばれるようになった[1]。
彼の名は、昭和末期から平成初期にかけて流行した即興劇団「スーパー山本会」の内部文書に由来するとされる。もっとも、本人は一貫して「53世は人数ではなく、必要な語感である」と述べており、この説明がかえって混乱を招いたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、東京都の下町である墨田区に、印刷所を営む山本家の長男として生まれる。幼少期から活版印刷のルビ組みと、近隣の寄席で用いられる前座の所作に強い関心を示したという。
小学校時代には、通知表の備考欄に「説明が長い」と記されたことがあり、これが後年の演出論の原型になったと伝えられる。また、の古書店で手に入れた系譜図の写本に夢中になり、以後「家名は人数を超えて増殖する」という独特の観念を持つに至った。
青年期[編集]
前半、早稲田周辺の小劇場文化に接近し、で舞台転換係を務めたのち、1976年に独自の即興集団「山本式可変座」を結成した。ここで彼は、役者名の前後に数字を付す形式、すなわち「世襲号」を試験導入している。
当初は「山本耕史二世」「三世」などが用いられたが、台本の管理を担当していた事務局が誤って「53世」と印字したことで状況が一変した。この誤植を本人が「最も人格が安定して見える数字」と評価したため、以後の広報物では意図的に53が採用されたとされる。
活動期[編集]
1984年、新宿の小ホールで上演された『系譜のための即席芝居』により注目を集めた。作品は上演ごとに配役が変わり、終演後に観客が配布された系図カードを並べ替えて完成させる仕組みであった。この実験は賛否を呼んだが、から「観客参加型の家名再定義」として高く評価された。
1990年代には、東京都教育委員会の委託で「称号の読み上げによる発声訓練」講座を担当し、年間約3,200人が受講したとされる[3]。ただし、この数字は受講修了証の発行枚数をそのまま人数に換算したものではないかとの指摘がある。
1998年には、関連の外郭団体である「称号保存推進機構」の設立準備会に参加し、スーパー称号制度の運用指針をまとめた。ここで彼は、継承者に必要なのは血縁ではなく「前任者の肩幅に対する理解」であると述べたとされ、しばしば引用される。
人物[編集]
山本は、他者の説明を遮らずに聞く一方、要点だけをきわめて抽象化して返す癖があった。このため、周囲からは「理解しやすいが、再現すると必ず別物になる人」と評された。
逸話として有名なのは、大阪公演の際、楽屋の札を「山本耕史53世」と「山本耕史第53代」に分けて貼り分け、本人が両方を見比べて「前者は風格、後者は行政である」と言った件である。また、会議の冒頭に必ず3分間の沈黙を置き、沈黙の長さを年号換算で記録していたという。
一方で、数字への執着とは裏腹に筆跡は極端に崩れており、契約書の署名が毎回異なるため、事務方からは「本人確認より筆圧確認が必要」と言われた。なお、本人はこれを「固定しないことが伝統である」と説明している。
業績・作品[編集]
代表的な演出作品[編集]
『系譜のための即席芝居』(1984年)は、観客が配布された家系図の断片を並べて結末を決める参加型作品である。上演回ごとに筋書きが変動するため、同一作品なのに第7稿から第19稿まで存在した。
『53世のための静物』(1991年)では、舞台中央に墨田区の商店街で集めた看板を一列に並べ、看板の色温度だけで感情を表現した。批評家の一部は「日本の演劇における色票行政の到達点」と評した。
称号制度の整備[編集]
山本の最大の業績は、スーパー称号制度の標準化である。これにより、名義の末尾に世代番号を付す慣行が一部の劇団、講演会、同人誌即売会で採用された。
彼がまとめた『可変号運用要覧』では、世代番号は必ずしも連番である必要はなく、季節や照明条件によって変更してよいとされた。これは実務上の混乱を生んだ一方、後に東京の一部小劇場文化で「番号の可塑性」として再評価された。
講演活動と受賞[編集]
1998年の特別奨励賞は、山本の講演『名乗りの保存と崩壊』に対して授与された。講演では、名乗りの文化は家族史よりも先に受付台帳から理解すべきだと主張したという。
にはを受章した。授章理由は「都内の催事における肩書の重複を、実務の範囲で増やしたこと」にあると記録されている。
後世の評価[編集]
没後、山本の仕事は演劇史というより命名史の文脈で語られることが多くなった。早稲田大学の一部ゼミでは、彼の資料が「近代日本における自己増殖する肩書」の典型例として扱われている。
ただし、本人の実際の演出成果と、後年に付与された神話的な評価との間には大きな隔たりがあるとも指摘される。特に「スーパー山本耕史53世」という呼称については、関係者の間でも由来が一致せず、ある史料では印刷所の誤植、別の史料では神奈川県の地域芸能の慣行が起点とされている[4]。
いずれにせよ、彼の名は「名前は人格であり、同時に制度でもある」という奇妙な命題を、最もわかりやすく体現した例として残っている。
系譜・家族[編集]
山本家は東京の下町に根差した印刷・装丁関係の家系であったとされ、父・山本市之助、母・山本としゑの二人の影響が大きかった。父は活字の並びに厳しく、母は家族の名札を季節ごとに書き換える習慣を持っていたという。
配偶者はに結婚した山本由紀子で、彼女は後年、山本の資料整理を担当した。子は一男一女とされるが、本人の講演録では「子は血統で数えるものではない」と述べているため、家族欄の記載が版によって異なる。
また、山本の弟とされる人物が北海道で独自に「山本耕史54世」を名乗ったという逸話があるが、本人はこれを「世代の継承ではなく、風土の分岐」と位置づけて黙認したとされる。
脚注[編集]
[1] 山本自身の初期講演録『名乗りの途中で』による。 [2] 『スーパー称号制度 第一回内部報告書』では53世の由来が別解釈で記されている。 [3] 受講者数は修了証ベースの集計であり、実数とは異なる可能性がある。 [4] 由来に関する一次史料は乏しく、後年の回想録間でも食い違いが見られる。
脚注
- ^ 佐伯光雄『名乗りの変容と可変号制度』日本演劇構造研究会, 1999年.
- ^ Margaret L. Thornton, "Lineage as Performance: The Super Title Movement in Tokyo", Journal of Comparative Stage Studies, Vol. 14, No. 2, 2003, pp. 88-112.
- ^ 山村正彦『スーパー称号運用要覧』文化調整出版, 1997年.
- ^ 小林由里子『下町系譜論: 墨田区の名札と共同体』白鯨社, 2005年.
- ^ Harold J. Vinson, "The Fifty-Third Heir: Ritual Numbering in Postwar Japanese Theatre", Theatre and Administration Review, Vol. 9, No. 4, 2008, pp. 201-219.
- ^ 『日本舞台構造学会紀要』第22巻第1号, 1998年, pp. 15-31.
- ^ 大石清隆『観客参加と家系図の再設計』新都学芸出版, 2002年.
- ^ 石橋妙子『名乗りの保存と崩壊』東京文化叢書, 1998年.
- ^ Kenji Arai, "Administrative Kinship in Urban Performance", East Asian Arts Quarterly, Vol. 7, No. 1, 2011, pp. 44-59.
- ^ 『東京都文化調整報告』第18号, 2007年, pp. 3-9.
外部リンク
- スーパー称号アーカイブ
- 東京可変演劇資料室
- 墨田命名史研究所
- 日本世襲号協会
- 下町文化データバンク