ソ連式マカロニウエスタン
| 名称 | ソ連式マカロニウエスタン |
|---|---|
| 別名 | 赤い西部劇、スパスコ・ウエスタン |
| 発祥 | ソビエト連邦 |
| 流行時期 | 1960年代後半 - 1980年代初頭 |
| 主な舞台 | 中央アジア、シベリア南縁、カスピ海沿岸 |
| 特徴 | 乾いた長回し、協同農場の決闘、蒸気機関車の追跡 |
| 代表的演出家 | セルゲイ・ヴォルコフ、イリーナ・ザリーナ |
| 主な制作機関 | ゴスキノ西方映画局 |
| 受容 | 東欧圏で人気、国外では「奇妙な社会主義西部劇」として話題 |
| 後継ジャンル | ポスト・タイガ・ウエスタン |
ソ連式マカロニウエスタンは、ソビエト連邦においての文法をとへ転換して成立したとされる映画潮流である。主に後半から1980年代初頭にかけて発展し、モスクワからタシケントにかけての複数の撮影所で生産された[1]。
概要[編集]
ソ連式マカロニウエスタンとは、の定型をソビエト連邦的な労働倫理、辺境開拓、集団的英雄像に置き換えた映画の総称である。名称に「マカロニ」が含まれるが、これは西側で流行した安価なの模倣品を指す俗称を、モスクワの映画批評家が半ば自嘲的に転用したものとされる[2]。
この潮流は、の内部会議で、輸出用の歴史活劇が「個人英雄に偏りすぎている」と批判されたことを契機に定式化されたという。以後、の乾燥地帯やの塩湖周辺が、荒野として再解釈されるようになった[3]。
成立の背景[編集]
起源については諸説あるが、最も広く知られているのは、近郊の試写会で上映された西部劇に対し、現地の機関士が「馬よりもトラクターの方が速い」と発言したことから発想が得られたとする説である。この逸話は後年、映画誌『』が大々的に紹介し、半ば公認の建国神話となった[4]。
また、第二次世界大戦後の鉄道建設映画において、駅長、測量員、料理係が三人一組で無法者を追う構図が高く評価され、これが「協同体による正義」の物語として西部劇に接続されたともいわれる。なお、初期作品の多くは撮影用の乾燥砂が不足し、と小麦粉を混ぜて地表を再現していたが、これが独特の白っぽい画面を生んだとされる[5]。
歴史[編集]
前史と実験期[編集]
最初期の試みは1958年の短編『』で、ここではカウボーイの代わりに国境警備隊員が登場し、決闘の前に身分証明書を相互確認する場面が挿入された。観客動員は2日でに達したが、決闘よりも書類のやり取りが長すぎるとして、地方紙『』から賛否両論を受けた。
に入ると、映画スタジオの若手監督たちが、アメリカ西部の「自由」を、計画経済の「配給」に置き換える実験を始めた。代表作『』では、賞金首を追う保安官が、最後に共同倉庫の在庫簿と照合して犯人を特定するという、きわめて行政的な決着が採用された。
黄金期[編集]
黄金期は1971年から頃とされ、の予算が前年比で平均増加した時期と重なる。特に『』は、全編のが列車の待機と修理に費やされるにもかかわらず、終盤の短い決闘で「労働の連帯」が可視化されたとして高い評価を受けた。
この時期、主演俳優のは、乗馬が苦手であったため、ほとんどの場面での改造車両に乗っていた。批評家は当初これを欠点とみなしたが、やがて「個人の俊敏さよりも物流の確実性を重視する美学」と解釈し直し、ジャンルの象徴的表現として定着した[6]。
衰退と再評価[編集]
1980年代に入ると、都市化の進展により「荒野」の撮影地が減少し、代わっての風力発電所跡やの塩田が利用された。しかし視覚的な新鮮さは維持された一方、観客側には「銃撃戦よりも道路補修の会議が多い」との不満も増えた。
の『』を最後に商業的制作は縮小したが、以降は学術研究の対象として再評価され、の回顧上映やの特集で紹介された。国外では、冷戦の比喩として消費されることもあれば、単なる奇書的映画群として愛好されることもあった。
作品の特徴[編集]
ソ連式マカロニウエスタンの最大の特徴は、主人公が単独で世界を変えるのではなく、などの補助的職能を持つ人物が連携して勝利する点にある。銃はしばしば登場するが、発砲は最後の手段であり、むしろ対立は、、をめぐって生じることが多い。
映像面では、夕陽の代わりに長いや砂塵、遠景のが用いられた。また、音楽はとを重ねた重厚な編成が基本で、決闘の直前にが無言で整列する演出がしばしば見られた。これにより、観客は緊張よりも「会議開始前の静けさ」に近い感覚を抱いたという[7]。
なお、いくつかの作品では、悪役が単なる無法者ではなく「統計を改ざんする地主」や「配給券を横流しする商人」として描かれている。これは当時の検閲当局が、露骨な反国家性よりも、経済秩序の混乱を悪として見せる方が教育的であると判断したためとされる。
代表的作品[編集]
『』(1958年)は、ジャンルの原型とされる短編である。わずかの上映時間に、逃亡者の追跡、国境の確認、そして公文書の押印が詰め込まれており、後年の監督たちはこれを「最も誠実な西部劇」と呼んだ。
『』()は、地方財務局の職員が賞金稼ぎに転じる話で、終盤で銃より先に電卓が抜かれる場面が有名である。『』(1974年)は前述の通り列車映画としても解釈され、の研修教材に短期間採用されたという。
『』(1977年)では、牧場主ではなく集団農場の主任が決闘を挑まれるが、最終的に全住民が輪になって見守る「共同決闘」へと拡張される。この作品は国外の批評家から「政治的である以前に妙に親切だ」と評された。
社会的影響[編集]
この潮流は、ソ連内部での西部劇受容を一変させたとされる。特に若年層の間では、革の帽子よりも、銀の弾帯よりもが流行し、映画公開後に地方の玩具工場が「赤い保安官バッジ」を月産まで増産したという[8]。
教育現場でも影響は大きく、一部の歴史授業では「辺境の開拓」と「インフラ整備」を同時に学ばせる教材として利用された。もっとも、レニングラードの映画研究者は、これを「国家が冒険を会議化した稀有な事例」と評しており、文化政策の成功例なのか歪曲なのかは現在も議論が続いている。
国外では、イタリアやフランスの批評家がこのジャンルを「西部劇の骨組みに官僚主義を詰めたもの」と紹介し、アメリカ合衆国では一部のシネフィルがカルト的に収集した。特に英語圏では、字幕が追いつかず、登場人物の肩書だけで3分を費やす場面が逆に熱烈な支持を受けたとされる。
批判と論争[編集]
批判の主眼は、しばしば「西部劇の活力を行政手続きで薄めた」とするものであった。また、主演俳優の多くが出身であったため、現場で即興性が失われていたとの指摘もある。もっとも、監督側は「即興は計画の一部である」と反論している。
一方で、に公開された『』をめぐっては、決闘の勝敗が議事録の採択結果で決まる描写が「政治宣伝に近い」として物議を醸した。これについて制作スタッフは、実際の議事録には投票者の足跡が砂上に残っていたため、視覚的に自然な演出であると説明したが、今日では要出典とされることが多い。
さらに、ジャンル名に「マカロニ」を含むにもかかわらず、麺料理がほとんど登場しない点も長らく笑いの種であった。なお、一部作品では夕食の場面にがやたらと映り込むため、海外版ポスターでは誤って「そば西部劇」と紹介されたことがある。
脚注[編集]
[1] 国家映画資料館所蔵、1979年整理番号A-441。
[2] Ivan Petrov, "Border and Bureaucracy in Soviet Frontier Films", Journal of Eurasian Screen Studies, Vol. 12, No. 3, 1988, pp. 44-61.
[3] ただし、会議の議事録原本は未発見である。
[4] 『赤いスクリーン』4月号は現存確認が難しい。
[5] Tamara Volkova, 『砂と接着剤の美学』, 1991年, pp. 102-118.
[6] Mikhail S. Orlov, "Armored Car as Horse Substitute", Soviet Film Quarterly, Vol. 8, No. 1, 1976, pp. 7-19.
[7] 「合唱団が無言で整列する理由」については諸説ある。
[8] 年次報告書、1978年版。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 伊藤健二『辺境映画の計画経済』未来社, 1984年.
- ^ Ivan Petrov "Border and Bureaucracy in Soviet Frontier Films" Journal of Eurasian Screen Studies Vol. 12 No. 3, 1988, pp. 44-61.
- ^ Tamara Volkova『砂と接着剤の美学』カザン大学出版部, 1991年.
- ^ Sergei Volkov "The Collective Duel in Steppe Cinema" Slavic Visual Culture Review Vol. 5 No. 2, 1979, pp. 88-104.
- ^ 中村志郎『赤い西部劇の社会史』晶文社, 1993年.
- ^ Olga Kuznetsova "State Planning and Genre Drift in Soviet Popular Film" International Journal of Film Politics Vol. 9 No. 4, 2001, pp. 201-219.
- ^ A. M. Sokolov『乾いた平原の議事録』モスクワ映画文化研究所, 1980年.
- ^ Mikhail S. Orlov "Armored Car as Horse Substitute" Soviet Film Quarterly Vol. 8 No. 1, 1976, pp. 7-19.
- ^ 田辺一郎『ソ連映画における輸送と英雄像』河出書房新社, 2002年.
- ^ Eleanor Whitby "When the West Met the Five-Year Plan" Cinema and Society Vol. 14 No. 1, 1997, pp. 3-26.
外部リンク
- 赤いスクリーン・アーカイブ
- ゴスキノ西方映画局資料室
- 中央アジア映画回顧館
- ソ連映画研究ネットワーク
- 辺境叙事詩映画データベース