フェニックス大村
| 氏名 | 大村 鳳介 |
|---|---|
| ふりがな | おおむら ほうすけ |
| 生年月日 | 1897年2月14日 |
| 出生地 | 長崎県沿岸部・旧羽生村 |
| 没年月日 | 1973年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗学者、発明家、文筆家 |
| 活動期間 | 1920年 - 1972年 |
| 主な業績 | 火戻し術の理論化、再生式灯火器の設計、災後儀礼の記録 |
| 受賞歴 | 帝都民俗功労章(1958年)、(1966年) |
大村 鳳介(おおむら ほうすけ、 - )は、日本の民間寓話収集家、再生儀礼研究者、装置設計家である。『』の体系化と、九州各地の縁起担ぎ文化を昭和期に再編した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
大村 鳳介は、戦前から戦後にかけて活動した日本の民間再生学者である。の海沿いの村に生まれ、火災や飢饉の後に共同体がどのように「元に戻る」かを観察し、これをとして記述したことで知られる[2]。
また、彼は東京帝国大学の外郭研究会に出入りしながら、実地調査と独自の装置設計を往復させた人物であった。後年「フェニックス大村」と呼ばれたのは、焼失した資料を何度も復元したことと、本人が再生を意味する鳳凰紋を名刺に用いていたことによるとされる[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大村は、沿岸の羽生村に生まれる。父・大村善右衛門は小規模な船具商で、母・トメは神社の火守役を兼ねていたとされ、幼少期から「燃え尽きた後の片付け」を厳格に教えられたという[4]。
8歳のとき、浜辺の倉庫火災で村の帳面が失われたが、彼は焼け跡から煤のついた竹札を拾い集め、家ごとの借米を復元した。この経験が後の業績の原点になったと本人は述べているが、同時に「子どもが帳面をいじるので困った」とする近隣証言も残る。
青年期[編集]
を経て東京帝国大学の聴講生となり、系の民俗研究会ではなく、より実務寄りのに加わった。ここでの修復記録を読んだことから、焼失後の文化財管理に強い関心を抱くようになったとされる。
の関東大震災後には、罹災地で「再開の順序」を調査し、銭湯、米屋、床屋、講談席の復旧順が地域の士気に影響するという仮説を発表した。これが当時の新聞で奇抜な研究として取り上げられ、彼の名は半ば有名人になった。
人物[編集]
大村は、温厚であるが妙に段取りに厳しい人物として知られた。会合では必ず最初に窓を3分だけ開け、空気の入れ替わりを確認してから議論を始めたため、弟子たちはこれを「鳳介の換気」と呼んだ。
また、彼は失敗を好んで記録した。完成品よりも、途中で止まった装置や、焼け焦げた紙片のほうが次の発明につながると考えたためである。この姿勢は評価されたが、同時に研究室が異様に煤けていたため、文部省の査察で「実験環境に独特の宗教性がある」との所見を受けたことがある[6]。
逸話としては、出張先の熊本県で豪雨に遭った際、宿の女中に「こういう日は鍋を先に磨くと家が立ち直ります」と真顔で言い、翌朝には本当に宿泊客全員が台所の掃除を手伝っていたという話が有名である。
業績・作品[編集]
火戻し術[編集]
大村の代表的業績は、災害後の共同体を立て直すための方法論『火戻し術』である。これは、焼失した家屋や店舗を単に再建するのではなく、匂い、音、食事、挨拶の順に日常を戻すべきだとする実務体系で、刊の『火後共同体論』で整理された[7]。
彼は火災現場において「まず茶碗を洗う」「次に帳面を読む」「最後に看板を立てる」という3段階を提唱したが、これを実践した地区では商店街の再開日が平均で5.4日早まったとされる。ただし、この数字は後年の聞き取り調査に依存している。
再生式灯火器[編集]
装置設計家としての大村は、再生式灯火器のシリーズを残した。とりわけ『鳳灯三号』は、風の強い港湾部で炎が「倒れにくい」ように芯を二重構造にした点で知られる[8]。
試作品の一つは横浜市の倉庫街で実地試験され、3時間42分にわたり点火を維持したと報告された。なお、試験中に灯油を補給する係が「鳥が鳴くまで持つ」と言い、以後この表現が業界用語になったという。
著作[編集]
著書には『煤の民俗』『復興の礼法』『焼け跡の朝食学』などがある。とくに『焼け跡の朝食学』は、パンではなく米粥から日常を戻すべきだと論じた異色作で、国立国会図書館の目録では民俗学と栄養学の境界に分類されている。
また、雑誌『再建』への寄稿「門前の掃き方と町の時間感覚」は、後の都市計画論にも影響を与えたとされる一方、最後の一節が突然「まず釜を見よ」で終わるため、いまでも解釈が割れている。
後世の評価[編集]
戦後のや防災研究者は、大村を「災害対応の文化面を先に見た数少ない人物」と評価した。特に以降の地域復興研究では、物理的なインフラだけでなく、台所・帳簿・祭礼の回復が住民帰還に影響するという見方の先駆とみなされている[9]。
一方で、彼の理論は実証性に乏しいとして長く周縁に置かれた。弟子筋が残した統計表には、なぜか「復興度は味噌汁の湯気の高さに比例する」といった記述もあり、現在でも学術的再評価の対象である。
の郷土資料館では、毎年9月に「フェニックス大村展」が開かれ、鳳灯の復元模型と、本人が煤で黒くした手帳の複製が展示される。来館者の一部はこれを防災展示と誤解するが、学芸員によれば「半分は防災、半分は風変わりな生活史」であるという。
系譜・家族[編集]
大村家は、もともとの海運に関わる家系で、祖父・大村弥作は帆布修理を生業としていた。父・善右衛門は商才に長け、母・トメは神社の火消し役として、家の「燃え残り」を大切に保管していたと伝えられる。
妻は大正15年に結婚した大村ハルで、町の共同炊事所で働いていた人物である。二人の間には長男・鳳一、長女・咲子が生まれ、鳳一は後に京都で民具研究を行った。なお、孫の代になると「フェニックス」を英字で書くのが流行し、一族の名刺が妙に派手になったという。
鳳介の没後、家族は遺品の整理に3年を要したとされる。とくに原稿用紙の裏にまで復旧メモが書かれていたため、親族が「この人は家でも復興計画を立てていた」と回想している。
脚注[編集]
[1] この人物像は大村鳳介の初期評伝『火のあとに立つ人』(1959年)に基づくとされる。
[2] 『大村鳳介日記抄』第4巻には、本人による「再生は文化の整理整頓である」との記述がある。
[3] 鳳凰紋の名刺は現存例が3枚確認されているが、印刷年については資料ごとに2年ほどの差がある。
[4] 羽生村の戸籍簿は戦災で焼失しており、出生年には異説がある。
[5] 復興速度17%の算出方法は、商店の開店時刻と炊飯開始時刻を同一指標で扱った可能性が指摘されている。
[6] 文部省査察報告書『民間研究施設の環境に関する件』(1938年)は閲覧制限がかかっていた時期がある。
[7] 『火後共同体論』は初版で42ページしかなく、しかも17ページ目が欠落している版が多い。
[8] 鳳灯三号の試験記録には、風速計の値よりも「見た目が落ち着いている」という所感が詳細に書かれている。
[9] 1978年の年報では、大村の理論を「実務に寄り添う民俗的復興論」と位置づけている。
脚注
- ^ 大島誠一『火のあとに立つ人――大村鳳介伝』港文社, 1959年.
- ^ 中村芳枝「災後共同体の礼法化」『民俗と復興』Vol.12, No.3, pp. 44-61, 1964年.
- ^ Harold W. Finch, “Post-Fire Domestic Recovery in Coastal Japan,” Journal of Comparative Folklore, Vol. 8, No. 2, pp. 103-128, 1968.
- ^ 松浦健二『焼け跡の朝食学』東海出版, 1972年.
- ^ Aiko S. Bennett, “Rekindling the Town: Omura’s Lamp Studies,” Pacific Review of Ethnotechnics, Vol. 5, No. 1, pp. 11-39, 1975.
- ^ 田所静江「鳳灯三号の構造と心理的照明効果」『実験民具学報』第4巻第1号, pp. 7-22, 1979年.
- ^ Robert K. Ellison, “Ash, Ledger, and Tea Bowl: The Omura Method,” The Nippon Studies Quarterly, Vol. 19, No. 4, pp. 201-230, 1982.
- ^ 小宮山和義『復興の礼法』青林書院, 1987年.
- ^ 佐伯みのり「大村鳳介の家族史再考」『長崎郷土研究』第31巻第2号, pp. 55-74, 1991年.
- ^ 真鍋純一『煤の民俗と都市再建』風来社, 2004年.
- ^ 渡辺ルイザ『大村鳳介と近代日本の再生儀礼』Reconstruction Press, 2011年.
- ^ 木下鉄平『フェニックス大村の研究――鳳凰紋名刺の文化史』東西館, 2018年.
外部リンク
- 長崎郷土資料アーカイブ
- 民間再生研究所
- 鳳灯復元会
- 焼け跡文化データベース
- 地方復興史オンライン