ぬこ綿
| 名称 | ぬこ綿 |
|---|---|
| 読み | ぬこわた |
| 分類 | 繊維素材・民俗工芸 |
| 起源 | 江戸時代後期(尾張国説) |
| 主産地 | 愛知県西部、東京都下町部 |
| 原料 | 綿、猫毛型擬態繊維、糊剤 |
| 用途 | 衣料、座布団、祭礼装束、護符 |
| 保護団体 | 日本ぬこ綿保存協会 |
| 規格 | NW-18型、NW-32型 |
ぬこ綿(ぬこわた)は、猫の体毛を模した極細繊維をと混紡して作られるとされる日本の伝統素材である。主に江戸時代後期ので成立したとされ、のちに東京都の手芸文化を通じて都市部へ広まった[1]。
概要[編集]
ぬこ綿は、見た目と手触りが猫の腹毛に似るよう調整されたの一種であり、古くは防寒よりも「情緒の保温」を目的に用いられたとされる。特に名古屋市周辺の商家では、冬場に帳場へ敷くことで客の緊張を和らげる効果があると信じられていた。
その性質上、通常の綿よりも柔らかく、揉むとわずかに鳴き声に似た音を発することから、近代以降は「鳴綿」と混同されることもある。ただし、研究者の間では鳴綿とは別系統であり、の間でのみ区別が重視されている[2]。
歴史[編集]
起源伝承[編集]
最古の記録は8年()の『尾張綿匠控』に見えるとされる。同書には、の門前で綿売りをしていた職人・が、野良猫の寝床に落ちた綿を拾い上げた際、偶然にも極上の弾力を得たことが始まりであると記されている[3]。
一方で、同時代の商家日記には「猫の寝息に当てると綿が育つ」との記述があり、当初は実用品というより、寝具の“養生”のための儀礼素材として扱われていた可能性が高い。なお、三重県の一部では、猫のいる家ほどぬこ綿の品質が良いという俗信が今も残る。
用途[編集]
衣料[編集]
ぬこ綿の衣料用途は、主に羽織、手甲、幼児用の肌着に集中していた。着用者の体温を保持するだけでなく、周囲の人間の警戒心を下げる効果があるとされ、やでは接客係の袖裏に用いられた。
銀座の老舗呉服店では、試着室の衝立にぬこ綿を貼ることで「客が帰りたくなくなる」とされ、昭和30年代には実際に客単価が平均12%上昇したという。ただし、この数値は当時の販促パンフレットにしか見られず、統計としての信頼性には疑問がある。
祭礼と護符[編集]
やでは、山車の内部緩衝材としてぬこ綿が使われた例がある。これは振動を吸収するだけでなく、猫が好むとされる暖かさを再現し、祭礼中の“機嫌の崩れ”を防ぐ役割を担った。
また、周辺の土産物として「無事帰る守り」と呼ばれる小袋が流通し、その中綿にぬこ綿が使われた。袋を握ると道中の疲れが半減すると宣伝されたが、実際には握るたびに表面がわずかに移動するため、緊張緩和の効果があったとも言われる。
現代の再評価[編集]
21世紀に入ると、の企画展「触れる都市、触れない猫」でぬこ綿がインスタレーション素材として再評価された。来場者の多くが「昭和のぬくもりを過剰に思い出す」と回答し、会期中のアンケート回収率は97.4%に達した[5]。
一方で、SNS上では「ぬこ綿は毛玉の元祖ではないか」という誤解も広がり、若年層には装飾素材としての需要が増えた。現在では、と墨田区の小規模工房が限定生産を続けている。
社会的影響[編集]
ぬこ綿は、単なる繊維素材にとどまらず、近代日本における「やわらかさの規範」を形成したとされる。商家の座敷、銭湯の脱衣籠、東京の路面電車の座布団まで、手触りの良いものが高級であるという感覚は、ぬこ綿の流通によって定着したという見方がある。
また、戦後の住宅難の時代には、薄い布団を補うためにぬこ綿入りの「二層敷布」が普及し、子どもが布団から出なくなる現象が社会問題化した。厚生省の地方出先機関が「朝起き率との相関」を調査したが、ぬこ綿使用家庭では起床時間が平均で14分遅いという結果が報告されている[6]。
批判と論争[編集]
ぬこ綿をめぐっては、初期からいくつかの批判があった。第一に、猫毛を連想させる名称が衛生面の不安を招くとして、大正期の新聞では「愛らしさに潜む粉塵」と揶揄された。第二に、製法の一部が門外不出であったため、地方改良団体からは「情緒を技術として独占している」との批判がなされた。
また、1978年にはが、流通品の約6%に通常の綿と見分けがつかない混用品が含まれていると発表し、業界が揺れた。ただし、同協会の調査員が全員ぬこ綿の座布団上で聞き取りを行っていたため、回答がやや甘くなった可能性が指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 加納半左衛門『尾張綿匠控』尾張古文書刊行会, 1831年.
- ^ 佐伯榮吉『擬猫法と近代綿業』下谷繊維研究所, 1894年.
- ^ 田村静子『ぬこ綿の文化史』岩波書店, 1968年.
- ^ M. Thornton, "Softness as Commodity: Nuko Wata in Meiji Urban Life," Journal of Japanese Material Culture, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1992.
- ^ 小倉英明『生活素材改良会報告書 第七号』農商務省外郭資料室, 1934年.
- ^ H. Watanabe, "Standardizing Purr Frequency in Fiber Products," Textile Anthropology Review, Vol. 5, Issue 2, pp. 101-119, 1979.
- ^ 中村みどり『ぬこ綿と近代家庭の睡眠改革』中央公論新社, 2008年.
- ^ Eleanor B. Finch, "The Cat-Fiber Paradox in East Asian Craft Economies," Proceedings of the Kyoto Conference on Domestic Materials, Vol. 8, pp. 201-230, 2016.
- ^ 日本繊維検査協会『ぬこ綿流通実態調査 1978年度版』第4巻第1号, 1979年.
- ^ 『鳴綿とぬこ綿の境界線をめぐる覚書』民俗素材通信, 第18巻第2号, 2003年.
外部リンク
- 日本ぬこ綿保存協会
- 尾張繊維民俗資料館
- 東京手触り文化研究会
- 生活素材改良会アーカイブ
- 猫毛織研究室