エーリッヒ・レーバーマン
| 氏名 | エーリッヒ・レーバーマン |
|---|---|
| ふりがな | えーりっひ・ればーまん |
| 生年月日 | 1887年4月17日 |
| 出生地 | 長崎県長崎市外濠町 |
| 没年月日 | 1959年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工学者、記録写真家、都市測量家 |
| 活動期間 | 1911年 - 1957年 |
| 主な業績 | 音叉式景観測定法の確立、港湾風景分類表の作成、夜間歩行記録帳の普及 |
| 受賞歴 | 帝都地誌会特別賞、記録部門顕彰 |
エーリッヒ・レーバーマン(えーりっひ・ればーまん、 - )は、日本の民俗工学者、記録写真家、ならびに「音叉式景観測定法」の提唱者である。港湾都市の地形と群衆の動線を同時に記述した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
エーリッヒ・レーバーマンは、明治末から昭和中期にかけて活動した日本の民俗工学者である。長崎市で生まれ、のちに東京帝国大学の周辺で独自の調査活動を展開したとされる。彼は、都市の「見え方」を計測可能な対象として扱う音叉式景観測定法を唱え、港湾部の斜面、橋脚、看板、潮風の匂いを含めた総合的な記録を試みた[1]。
一方で、レーバーマンの名は学術史よりも、現地踏査の異常な細かさで知られている。たとえばの横浜調査では、周辺を47回往復し、同じ街路樹の影長を6分間隔で記録したという。こうした調査法は当時の測量官から「地形と気分を同時に測る」ものとして半ば揶揄されたが、のちに都市景観研究の先駆とみなされるようになった[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
レーバーマンは、を見下ろす外濠町の雑居長屋に生まれた。父はドイツ語通訳を兼ねた倉庫番、母は周辺の洋菓子店で帳場を務めていたとされる。幼少期から潮位の変化と船の汽笛の間隔を記録する癖があり、近隣では「波の字引き」と呼ばれていたという。
彼が最初に関心を示したのは人間ではなく、港に積まれた木箱の並び方であった。箱の角度、縄の結び目、荷役人夫の足跡の深さを紙片に写し取り、の図画教師から注意を受けたという逸話が残る。もっとも、この逸話は後年に本人が脚色した可能性があるとされている。
青年期[編集]
、レーバーマンは東京帝国大学の聴講生となり、地理学と写真術を中心に学んだ。正式な学籍はなかったが、なる測量学者の助手を名乗り、学内では半ば公認の存在であったという。特にの旧試験場で行われた霧中撮影実験に参加し、湿度の高い朝だけ露光時間が変わることを「都市の呼吸」と表現した。
この時期、彼は、、函館を巡り、港湾都市ごとの「景観の癖」を比較した。1909年の神戸調査では、の石畳を一枚ずつ番号づけし、雨の日と晴れの日で石の反射率を別々に分類したため、港湾局から「実務に役立つが提出書類が厚すぎる」と苦情が出たとされる。
活動期[編集]
、レーバーマンは独自の調査機関「港湾景観研究室」を設け、本格的な活動を開始した。ここでは東京市、横浜市、神戸市を対象に、街路、倉庫、橋、坂道、電線、看板の密度を数値化する試みが進められた。彼の代表的手法である音叉式景観測定法は、周波数の異なる音叉を鳴らし、その残響が建物の材質や街路の奥行きによってどう変わるかを記録するものであった[3]。
代にはの周辺で顧問的な立場を得て、震災後の市街地再編に関わったとされる。特に関東大震災後の銀座周辺では、仮設建築の「視線遮断率」を算出し、焼け跡に残る煙突の高さを標準化する案を提出した。もっとも、この提案は実務に採用された形跡が薄く、後世の研究者からは「書類の中でのみ完成した都市計画」と評されている[4]。
さらにには、全国の漁港を対象とした『港湾風景分類表』を刊行した。これは風向、潮位、荷役音、犬の吠え声の頻度まで含めた12項目評価で、からまでの64港が掲載された。中でもの項目には「霧が多いゆえ、倉庫の影が職員の勤務態度にまで影響する」との記述があり、当時の官庁内でひそかな人気を呼んだという。
人物[編集]
レーバーマンは、几帳面であると同時に妙に迂遠な人物であったとされる。会議では一度も結論から話さず、必ず「まずこの坂の曲率を見ていただきたい」と前置きしたため、同席者を困惑させたという。
性格面では、寡黙である一方、観察対象への執着が異常に強かった。ある晩浅草で撮影した提灯の列が3本ずれていたことに翌朝まで気づかず、同じ場所へ戻って再撮影した話は有名である。本人はこれを「誤差の補正」と呼んだが、弟子たちは「気分の補修」と呼んでいた。
また、彼は味覚に関しては極めて保守的で、調査地で必ず同じ茶菓を注文した。とくにの蕎麦屋で出された甘納豆を、地図の余白に貼り付けて保存した記録が残る。これらの奇癖は、のちに民俗工学の方法論と混同されることになった。
業績・作品[編集]
音叉式景観測定法[編集]
レーバーマンの最も著名な業績は、ごろに体系化された音叉式景観測定法である。これは、現地で異なる周波数の音叉を鳴らし、建築物の密集度、路面の材質、空間の「抜け」を音の減衰として読む方法であった。彼は、、の3種を標準音叉とし、港町では768Hzが最も早く減衰すると主張した。
当初は奇術めいた手法と見られたが、逓信省の一部技師が通信塔周辺の反響測定に応用したことで、限定的に評価が高まった。なお、レーバーマンはこの測定値をもとに「良港の条件は潮の満ち引きではなく、戻ってくる音の礼儀正しさにある」と記した[5]。
港湾風景分類表[編集]
『港湾風景分類表』は、彼の実地調査を集大成した冊子であり、に私家版として発行された。表紙は厚紙に青インクで港の断面図が刷られ、奥付には「必要に応じて雨天での閲覧を推奨」と書かれていたという。掲載港は64、細目は合計312項目に及び、なかには「倉庫猫の出現率」「灯台守の咳払いの長さ」まで含まれていた。
この本は学界よりもむしろ地方の役場で重宝され、では観光案内の下敷きにされたほか、では港の待合室に置かれて漁師の会話の種になった。もっとも、分類の一部は彼の主観に大きく依存しており、函館との順位が毎版入れ替わるため、港湾関係者の間で小さな論争を引き起こした。
夜間歩行記録帳[編集]
戦後期の代表作とされるのが『夜間歩行記録帳』である。これはから配布された簡易帳票で、散歩中に見た店先の明かり、電柱の本数、犬の鳴き声、路面電車の終電時刻を記録するものだった。彼はこれを「焼失都市の残光を測る装置」と呼んだ。
特に東京の地区でこの帳票を使った調査は、のちに戦後復興の生活史研究に影響を与えたとされる。ただし、帳票の余白が異様に大きく、利用者の大半が買い物メモとして転用したため、実際の普及範囲は不明である[6]。
後世の評価[編集]
レーバーマンの評価は、学術的には長く周縁的であった。都市計画史の中では「精密すぎる素人」と「資料癖の強い発明家」の両義的存在として扱われ、東京大学の一部研究者からは再評価が進んだ一方、実務家のあいだではなお懐疑も根強い。
しかし1980年代以降、都市の感覚的環境を扱う研究の広がりとともに、彼の手法は先駆的であったと見直されるようになった。特にで発見された未整理ノート群には、信号機の点滅周期と歩行者の滞留時間を対応させた表があり、現代の都市データサイエンスを先取りしていたとする意見がある。
一方で、彼の記述には観察よりも比喩が勝る箇所が多く、研究対象としての厳密性には疑問も残る。もっとも、その曖昧さこそが戦前・戦後の都市の空気を伝えると評価されることもあり、今日では「事実の記録者」というより「都市感覚の編集者」として位置づけられている。
系譜・家族[編集]
父・は長崎港の倉庫業に従事していたとされ、母・は和洋菓子店の経営に関わっていた。兄弟姉妹については記録が少なく、本人は晩年に「家族は三人いたが、皆それぞれ別の方角を見ていた」と語ったという。
に横浜で知り合ったと結婚し、二男一女をもうけた。長男のは写真技師、長女のはで洋裁学校を開き、次男のは港湾荷役の監督を務めたとされる。なお、戸籍上の姓の扱いをめぐって家族内で一時混乱があり、研究者のあいだでは「レーバーマン家の改姓問題」として知られている[7]。
弟子筋には、、らがいる。とりわけ木村芳枝は、レーバーマンの測定帳を受け継ぎ、に『街角の静けさ指数』を独自に完成させたとされる。
脚注[編集]
[1] 彼の出生年には説もあるが、所収の戸籍写本ではとなっている。 [2] この横浜調査の原票は現存しないが、に抄写本が残るとされる。 [3] 音叉式景観測定法はに最初の論考が出たという説もある。 [4] 帝都復興院への関与は、本人の日記にのみ記されているため、実際の公的任命は不明である。 [5] 「音の礼儀正しさ」という表現は、後年の編集者が整えた可能性がある。 [6] 帳票の配布数は約3,400部とする資料と、1,200部とする資料があり一致しない。 [7] 戸籍の写しは戦災で焼失したとされ、家族関係の確定にはなお議論がある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『港町の音を測る――エーリッヒ・レーバーマン研究』風景社, 1987.
- ^ M. A. Thornton, "Harbor Perception and Urban Resonance", Journal of Invented Urban Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 44-79, 1991.
- ^ 藤原千代子『戦前日本の民俗工学とその周辺』青潮書房, 2004.
- ^ 中島博文『音叉式景観測定法の理論と実践』帝都出版, 1968.
- ^ H. K. Weller, "The Night-Walk Ledgers of Postwar Japan", Pacific Cartographic Review, Vol. 5, No. 1, pp. 101-128, 1978.
- ^ 山根典夫『港湾風景分類表解題』神戸港湾文化研究会, 1995.
- ^ 岡田美沙『復興都市の足音と影――レーバーマンノートの読解』文理閣, 2011.
- ^ E. J. Lindholm, "A Study of Tone Fork Topography", Proceedings of the East Asian Society for Applied Folklore, Vol. 7, pp. 9-33, 1963.
- ^ 木原松彦『長崎外濠町の記憶』南蛮堂, 1972.
- ^ 高瀬冬馬『街角の静けさ指数』とその誤読について', 都市文化論集, 第18巻第2号, pp. 55-61, 2008.
外部リンク
- 帝都地誌アーカイブ
- 港湾景観研究室デジタル保存館
- 長崎外濠町民俗資料集成
- 昭和都市音響研究センター
- 横浜記録写真協会