奇面組
| 分類 | 顔貌標本学・学生文化・演芸史 |
|---|---|
| 起源 | 19世紀末の東京府下の寄宿学校 |
| 提唱者 | 南条三省、久我原直哉 |
| 初出文献 | 『奇面組研究序説』 |
| 主要拠点 | 東京、神戸、仙台 |
| 関連制度 | 学内風紀委員会、寄宿舎自治会 |
| 象徴 | 揃いの襟章と三列整列 |
| 影響 | 学芸会、放送劇、地域祭礼 |
奇面組(きめんぐみ、英: Kimen Group)は、における「表情の集団的偏差」を指す語であり、の東京府で発生した学生互助組織に由来するとされる[1]。のちに昭和初期の帝国大学系研究者によって体系化され、現在では演芸、教育、制服文化の三領域で用いられることがある[2]。
概要[編集]
奇面組は、本来は「互いの顔つきや表情の癖が強く、単独では説明しにくい一群」を指すであるとされるが、明治末期には寄宿学校の規律を補助するための観察単位としても扱われた[3]。特に東京府下の私立中等教育機関では、遅刻、忘れ物、私語の多さを個人ではなく集団の相互作用として把握するため、奇面組という呼称が好んで用いられた。
また、この語は外見的特徴のみを揶揄するものではなく、むしろ「同じ型の失敗を反復する集団」の意味合いが強かったとする説が有力である。たとえばの記録には、1912年の学芸会で仮面をかぶった五人組が舞台裏の動線を完全に混乱させた事件があり、これが「奇面組」概念の拡大に拍車をかけたとされる[4]。
歴史[編集]
寄宿学校期[編集]
最初期の奇面組は、に神奈川県の寄宿制学校で確認されたとされる。記録上は、同じ寮の五名が毎週火曜にのみ同時に寝坊し、しかも理由が互いに微妙に食い違っていたことから、寮監のが「一人の怠慢ではなく、群としての遅延である」と報告したのが始まりとされる[5]。
この報告は、のちに文部省の学務局に送られ、風紀訓練の参考資料として採録された。ただし、当時の文書の一部は関東大震災で焼失しており、現存する写本の筆跡が3人分混在していることから、後世の編集が入った可能性がある。なお、同時代の生徒日誌には「奇面組ハ朝礼ニテ常ニ一列ニ並ブモ、視線ノ向キガ全員異ナル」とあり、すでに集団的特徴として認識されていた。
には仙台の旧制中学でも類例が報告され、教員が「学力の高低よりも、表情の濃度が議論の中心になる集団」と定義した。これにより、奇面組は単なる風変わりな生徒の寄せ集めではなく、学校空間における行動圧の塊として理解されるようになった[6]。
演芸化と大衆化[編集]
大正後期になると、奇面組は演芸の世界で独自の発展を遂げた。浅草の寄席では、顔の筋肉を極端に誇張する「奇面芸」が流行し、特にとその一座による『五人奇面行進』は、観客動員が初週で1万2,400人を記録したとされる[7]。この時期、奇面組は「面白い顔をした人々」の意味を離れ、むしろ「顔の統一感を崩さずに異常性を演出する一団」を指す専門語となった。
昭和に入ると、の普及に伴い、顔を見せないにもかかわらず奇面組を名乗る放送劇集団が現れた。彼らは声の高さ、間の取り方、咳払いの順番までを規格化し、聴取者に「見えない奇面」を想起させたという。とくに日本放送協会の地方局で録音された『奇面組夜話』は、後に教育番組の素材として転用され、子ども向けの集団規律の教材にもなった。
この過程で、奇面組は学校文化、演芸、放送文化を横断する語となったが、一方で「奇面組」という名称が集団への軽い侮蔑を含むとして、の東京市議会では一部の議員から使用自粛が求められた。もっとも、議事録ではその発言の直後に傍聴席から笑い声が起きたと記されており、語の浸透度の高さがうかがえる。
戦後研究と再評価[編集]
戦後はの一分野として再整理され、にが『奇面組の社会的機能』を発表したことで学術的な位置づけが確立したとされる。南条は、奇面組を「逸脱の記号ではなく、同質性の錯視を生む集団的装置」と定義し、京都大学の演習で用いた12枚の写真資料がのちに標準資料となった[8]。
には、名古屋の中学校で行われた学級経営実験において、あえて奇面組的な役割分担を導入することで欠席率が月平均18.7%から6.1%に低下したという報告がある。ただし、この研究は被験者数が37名と少なく、また担任が熱心すぎて昼休みに独自の合唱指導まで始めたため、再現性については疑義がある。
さらに1980年代には、テレビ番組の影響で「奇面組」という語が再び大衆化し、若年層のあいだで「顔よりも連帯感が先に立つ集団」という意味で使われた。これにより、本来の学術用語と俗語の境界が曖昧になり、辞書によっては「教育社会学の用語」と「不良少年団風の呼称」の両方を併記する例も見られる。
社会的影響[編集]
奇面組の概念は、学校現場における集団把握の方法を変えたとされる。従来は成績や出席だけで評価されていた生徒群が、表情、姿勢、遅延傾向、会話の同期性まで含めて観察されるようになり、の教育行政文書には「奇面組式記録票」が採用された痕跡がある[9]。
また、地域社会では祭礼や商店街の催事において、同じ衣装で微妙に違う表情を見せる集団を「奇面組」と呼ぶ慣習が生まれた。大阪のある商店街では、七夕のたびに11名の青年団が交互に無表情と満面の笑みを繰り返す「奇面行列」が実施され、近隣の子どもたちからはむしろ縁起物として扱われたという。
一方で、の側からは、奇面組が日本の集団主義を象徴する概念として過剰に一般化されたとの批判もある。特にのでは、奇面組を「日本文化の説明に都合が良すぎるパッケージ」とする報告が出され、以後は慎重な使用が求められるようになった。
論争[編集]
奇面組をめぐる最大の論争は、その起源が本当に寄宿学校にあるのか、それとも先に演芸用語として成立し後から教育分野へ輸入されたのか、という点である。南条系の研究者は前者を支持し、花月亭系の史料は後者を示唆するが、両者ともに依存しているため決定打に欠ける。
また、1991年にで見つかったとされる『奇面組台帳』には、登録番号の連番が途中で飛んでおり、しかも3件だけ西暦ではなくで記されていた。これについては「筆写の際に別の帳簿を貼り合わせた」との見方がある一方、「そもそも奇面組が季節行事ごとに増殖した」とする大胆な説も提示されている。
さらに、現代では企業研修におけるチームビルディングの文脈で奇面組が引用されることがあり、これを「顔面の個性を利用した組織論」とみなす実務家もいる。ただし、研修の最後に全員へ仮面を配る手法はの観点から問題があるとして、要出典のまま放置されている記述も多い。
定義の変遷[編集]
初期の奇面組は、単に変わった顔立ちの者をまとめた呼称に近かったが、1910年代には「表情の同期が不完全な集団」、には「規範と逸脱の両方を同時に演じるグループ」、では「外形よりも関係性で識別されるまとまり」として定義されるようになった。定義の変遷は、社会が個人より集団のふるまいを読むようになった過程とも重なるとされる。
ただし、地方によって用法が大きく異なり、では親しい友人同士の冗談として、では学校行事の役割分担として、ではやや古風な演芸用語として理解される傾向がある。こうした語義の揺れは、辞書編集者を悩ませてきた要因の一つである。
によれば、奇面組とは「笑いを取るために似ていない者たちが、似ているふりをする最小単位」であり、この定義はの新聞コラムで広まった。もっとも、同氏の講演録には同じ箇所で「最小単位は7人」とも書かれており、学界では数字の整合性に関する議論が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 南条三省『奇面組研究序説』青楓書房, 1954年.
- ^ 久我原直哉『表情群と学校秩序』日本教育社, 1962年.
- ^ 花月亭鶴八『浅草奇面芸の成立』演藝文化出版, 1931年.
- ^ 佐伯義之『校庭における群像と視線』東北学術叢書, 1914年.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Semiotics of Grouped Faces in Modern Japan,” Journal of Comparative Anthropology, Vol. 12, No. 3, 1979, pp. 211-238.
- ^ 渡辺精一郎『奇面組台帳の復元と再配列』東京史料研究会, 1993年.
- ^ Harold P. Sweeney, “Institutional Smiles and Disciplinary Formations,” Bulletin of East Asian Studies, Vol. 8, No. 1, 1968, pp. 44-67.
- ^ 小島貞吉『寮監日誌抄』神奈川私学史料刊行会, 1902年.
- ^ 南条三省「奇面組の社会的機能」『教育社会学研究』第7巻第2号, 1955年, pp. 15-39.
- ^ 『国際顔貌研究会紀要』第4号, 1978年, pp. 88-91.
- ^ 久我原直哉『奇面組と七人の定義』中央新報社, 1958年.
外部リンク
- 顔貌標本学アーカイブ
- 東京寄宿文化研究所
- 奇面芸資料館
- 日本放送史データベース
- 地方校友会史料室