ハヒョタカ
| 氏名 | 羽代 鷹蔵 |
|---|---|
| ふりがな | はしろ たかぞう |
| 生年月日 | 1894年3月17日 |
| 出生地 | 日本・新潟県岩船郡羽代村 |
| 没年月日 | 1958年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗調律師、資料収集家、講演家 |
| 活動期間 | 1919年 - 1958年 |
| 主な業績 | 『山音十二律』の編纂、羽代式笛印法の考案 |
| 受賞歴 | 帝国民俗学会奨励賞(1937年) |
羽代 鷹蔵(はしろ たかぞう、 - 1958年)は、日本の民俗調律師、山間集落における音響儀礼の体系化で知られる人物である[1]。通称のハヒョタカとして広く知られる[1]。
概要[編集]
羽代 鷹蔵は、大正末期から昭和中期にかけて活動した民俗調律師である。山村に残る祭礼音の採集を独自に進め、のちに新潟県周辺の講社で用いられた「羽代式笛印法」を提唱した人物として知られる[1]。
その活動は、東京府のの周辺でいったん学術的に注目され、のちに地方の青年団や放送局の実験番組にまで波及したとされる。もっとも、本人の来歴には伝聞が多く、旧の村史と本人の講演録とで生年が微妙に異なる点が早くから指摘されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
羽代は、新潟県北部の羽代村に、船大工の家の三男として生まれたとされる。幼少期から日本海沿岸の風切り音に強い関心を示し、家の裏手にあった防風林で竹を削り、独自の笛を作っていたという。
頃にはで唱歌の補助を任され、旋律の高さよりも「息のむら」を揃えることに執着していたと伝えられる。なお、この時期にから来た巡回教師・寺島文助に「音は数である」と教えられたという逸話が残るが、一次資料は確認されていない[要出典]。
青年期[編集]
、羽代は家業を手伝うかたわらの夜講習に通い、音声学と図画を学んだ。翌年、上野で開かれた地方博覧会で《山鳴り記録器》を見て衝撃を受け、以後は民間伝承の音を記号化する作業に没頭したという。
1919年には東京府へ移り、の古書店街での講義録の写本を買い集めたとされる。ただし、羽代本人の手紙には「わたしは講義を一度も受けていない」とも書かれており、この点をめぐって後年まで議論が続いた。
活動期[編集]
、羽代はの例会で「山音十二律」について初めて口頭発表を行った。これは、山村の祭礼で用いられる笛・太鼓・喊声を十二の記号に整理し、祭の進行を天候と斜面角度に応じて補正する体系であると説明された。
には長野県上伊那郡の講社で実地指導を行い、計での稽古をこなしたと記録されている。羽代の方式は、当初は奇抜すぎるとして敬遠されたが、NHKの前身であるが1933年に行った山村実験放送で偶然採用され、笛の音がだけ遅れて届く谷あいでも祭礼の足並みがそろったことから、俄然注目を浴びた。
にはを受賞し、翌年には内務省地方文化班の嘱託として各地を巡回した。もっとも、この時期の記録の多くは羽代自身が編集した帳面に依拠しており、同行者の証言と食い違う箇所が少なくない。
人物[編集]
羽代は、几帳面で寡黙な人物として語られる一方、酒席では急に方言を混ぜて歌い出す癖があったという。特に新潟県北部の浜言葉と東京の書生言葉をわざと交ぜるため、初対面の者は真意をつかみにくかった。
衣服はつねに紺の仕事着で、右袖の内側に小さな鉛筆を七本縫い込んでいたとされる。これは「音の細部は七度まで書ける」という本人の持論によるもので、弟子の一人は「師は鉛筆を落としても必ず同じ位置に手を伸ばした」と回想している。
また、羽代は猫の鳴き声を長年観察し、特に冬季の低い唸りを「山の合図音」と呼んでいた。晩年の講演で「猫は祭りの終わりを一番よく知っている」と述べたことがあり、聴衆の半数が笑い、残りの半数が黙り込んだと記録されている。
業績・作品[編集]
羽代の代表的業績は、『』の編纂である。これはに私家版として30部だけ刷られた冊子で、山間部の祭礼を「風・声・足・火・笛」の五要素から十二の運用型に分類したものである。地元の関係者の間では、雨天時の笛合わせに実用的であったとされる。
ほかに、『』『』『』などの著作がある。特に『谷渡り音声誌』は、谷ごとに音の遅延が異なるため「返事の早い地区ほど共同体意識が強い」と結論づけた点で知られ、京都帝国大学の一部研究者から引用された。
実務面では、羽代式笛印法が前半に新潟放送の地方文化番組で試験的に用いられ、スタジオ外の効果音に合わせて出演者が息継ぎを調整する方式が採用された。なお、これにより一部の収録でナレーターが過呼吸になったという逸話があるが、番組記録には残っていない[要出典]。
後世の評価[編集]
羽代の評価は、民俗学、音響学、地域文化振興の三分野で分かれている。民俗学の側からは「過剰に体系化された現場主義」と評されることが多いが、地方自治体の文化課では「実地採集の執念は学ぶべきである」として参照され続けた。
にはで小規模な回顧展が開かれ、来場者数はに達したとされる。この展示で初公開された笛印表の控えが後に複写され、の地域ラジオ番組制作にも影響した。
一方で、羽代の理論はしばしば「音を文化ではなく配列として扱いすぎた」と批判された。とくにの『民俗と測定』誌上で、ある研究者が「羽代の仕事は美しいが、現場の人間よりも表の体裁を信用している節がある」と述べたことが、いわゆる羽代論争の引き金になった。
系譜・家族[編集]
羽代家は、もとはの海辺で網元に仕える家筋であったという。父・羽代庄之助、母・羽代まさはともに読み書きに長け、庄之助は漁期の風向きを帳面に記録する習慣を持っていた。鷹蔵が音の記録に執着した背景には、この家風があったと考えられている。
妻はで、に結婚した。とよは講演旅行の会計を一手に担い、鷹蔵が買い集めた古い笛を整理番号ごとに布袋へ入れていた。長男・は北海道で教員となり、次男・は放送技術者になったとされる。なお、孫の代に入ってから家系図が一部混乱し、同じ名の人物が二人いる資料が見つかっている。
羽代の弟子はほど確認されており、その多くが各地の公民館で音の記録を続けた。弟子筋は今日でも「ハヒョタカ会」と呼ばれる非公式な勉強会を年に開いている。
脚注[編集]
[1] 羽代鷹蔵『山音十二律』私家版、1936年。
[2] 岩船郡史編纂委員会『羽代村史稿』羽代村教育会、1961年。
[3] 帝国民俗学会『会報』第14巻第3号、1937年、pp. 41-49。
[4] 東京放送局編『山村実験放送記録』非売品、1933年。
[5] 新潟県地方文化課『越後民俗音源目録』1954年、pp. 112-118。
脚注
- ^ 羽代鷹蔵『山音十二律』私家版, 1936年.
- ^ 帝国民俗学会編『会報』第14巻第3号, 1937年, pp. 41-49.
- ^ 東京放送局編『山村実験放送記録』非売品, 1933年.
- ^ 岩船郡史編纂委員会『羽代村史稿』羽代村教育会, 1961年.
- ^ 斎藤久志『民俗と測定』民俗文化社, 1986年, pp. 203-219.
- ^ Margaret L. Fenwick, "Rural Tuning Systems in Northern Japan," Vol. 12, No. 2, Journal of Ethnographic Acoustics, 1959, pp. 88-104.
- ^ 小野寺善三『越後山村の声帯地図』地方文化出版, 1948年.
- ^ 渡会まどか『羽代式笛印法の実際』新潟放送資料室, 1955年, pp. 7-31.
- ^ H. S. Langley, "On Delay and Echo in Valley Rituals," Vol. 8, No. 1, Transactions of the Pacific Folklore Society, 1941, pp. 11-27.
- ^ 北村一郎『谷渡り音声誌』神田民俗書房, 1939年.
- ^ 新潟県地方文化課『越後民俗音源目録』1954年, pp. 112-118.
外部リンク
- 羽代鷹蔵記念資料室
- 越後山間音文化アーカイブ
- ハヒョタカ会公式記録庫
- 地方文化放送史研究会
- 帝国民俗学会デジタル年報